峰隆一郎 西鹿児島発「交換殺人」特急 目 次  一章 二つの殺人事件  二章 愛欲の果て  三章 多情多恨  四章 交換殺人  五章 似合いのカップル  六章 毒入りカプセル  七章 二つの自殺  八章 阿寒湖畔心中  一章 二つの殺人事件     1  四月二十四日——。  横浜の山下公園はガスに煙っていた。雨雲が重くのしかかっていて、ときおり小雨が降っている。この公園はアベックのメッカである。いつもはアベックがあちこちにたむろし、そぞろ歩きしているものだ。また天気のいい日には家族連れも多いが、この日はさすがにアベックも少なかった。  一方は横浜港である。港にはさまざまな船が浮いていた。海のそばに寄ると潮の臭いもする。海のそばにはコンクリートの杭《くい》があり、杭と杭の間には鎖が張られている。  午後六時前後である。誰も正確な時刻は覚えていなかった。  鎖のそばに男が一人立っていた。その男はトレンチコートを着ていた。すらりと背が高く、スリムだったという。三十歳前後、男がいつからそこに立っていたかは誰も知らない。  ずっと以前から立っていたのかどうかさえ。都会の人は、よほど興味がない限り、他人のことは気にしないものだ。  男の背後をアベックが通りすぎる。このアベックも男のことには気がついていない。男はぼんやり海を見ていたようだった。男の足もとには、煙草の吸殻が落ちていた。ここに立ってから二本の煙草を吸ったことになる。  男の体がグラリと揺れた。そのまま海に転落していった。そのことに何人かが気付いた。そして岸壁に走り寄る。海を見る。男は浮いていた。それはすでに死体のようだった。 「救急車だ」 「いや、警察だ」  何人かが電話をするために走った。男はしばらく海面に浮いていたが、そのままゆっくりと沈んでいった。  パトカーが着いたのは十分ほど経ってからだ。弥次馬は水面を指さす。だがそこには男の影もなかった。私服の刑事たちが走って来た。  男の死体が潜水夫によって引き上げられたのは一時間ほど経ってからだった。  刑事たちが、目撃者たちに職質する。まず問題になるのは、男が海に転落した時刻である。だいたい六時をすぎたころだったと言い、六時半だったと言う者もいる。一一〇番されたのが六時二十二分だった。  次に転落した時の様子だった。 「何だか、体がゆらりと傾き、一度、岸端に倒れ、それから落ちたという感じだったな」  と目撃者が言う。 「自分でとび込んだのではなかったのか」 「一、二の三でとび込んだというのではなかったな。何かマネキン人形を倒したような感じだった。男の姿がそこから消えてなくなったので、おれは走って来たんだ。しばらく浮いていたよ。だけど手足は動かさなかった。その時にはもう死んでいたんじゃないか」  と目撃者は興奮気味に言う。  刑事たちが歩きまわり、鑑識が歩きまわる。鑑識がコートを脱がせた。すると背中に銃痕が二ヵ所あった。鑑識が刑事を呼んだ。 「射たれていますよ。それも銃口を押しつけて射ったようですね」  刑事がコートを手にして探したが、孔《あな》はあいていなかったのだ。 「射たれたあと、コートを着せられたんですかね。それとも自分で着たのか、まさか拳銃をコートの中に入れて射ったんじゃないだろうね」  胸部には傷はない、ということは貫通はしていないということになる。弾丸はまだ体の中に残っているのだろう。 「妙な事件だな」  と刑事が呟《つぶや》いた。  ポケットを探ると、まとまって十枚ほどの名刺が出て来た。海水に濡れてへばりついている。それを剥がしてみると、反町悠介《たんまちゆうすけ》という名前が出て来た。フリーのカメラマンらしい。  ポケットに入っていたものがみんなビニール袋に入れられる。  銃で射たれたのだから殺人事件だろう。まさか自分で自分の背中は射てないのだから。すると被害者ということになる。被害者が反町悠介と決ったわけではないが、反町本人だろう。  解剖のために遺体は病院に運ばれた。刑事たちは聞き込みを開始した。立っていた反町の姿を見た者は何人かいる。だが反町がどこからやって来たのかは誰も知らない。立っているのを見ただけである。ぼんやり海を眺めているように見えた。この反町のそばには誰も近づかなかった。  反町の背後をアベックが一組通りすぎただけである。加害者の姿を見た者はいない。だが反町はたしかに背中から二発射たれているのだ。  もちろん銃声を聞いた者はいない。背広が部分的に焼け焦《こ》げているのは、銃口を押しつけて射ったからで、つまり硝煙反応というやつだ。銃口を押しつけて射つと音は小さくなる。あるいはサイレンサーをつけていたのか。まともに拳銃を射っていれば、銃声は公園にいる人たちにも聞こえたはずである。  銃声らしきものがすれば、人は反射的に振り向くものである。銃声に気付いた者は一人もいなかった。  いま一つおかしなことは、射たれたあとからトレンチコートを着たことである。着せられたのではなく、おそらく自分で着たのだろう。どうして何のために着たのか、まず刑事たちはこのことを不思議がった。  現場からはほとんど何も出なかった。集った人たちによって踏みにじられたのだ。公園に人はあまりいないように見えて集ったのは三十人ほどもいたのだ。  反町が吸ったと思われる二本の吸殻もなくなっていた。あとでこの吸殻が問題になるはずだったのだが。小雨が降っていた。吸殻は崩れ、紙は誰かの靴の底にでもへばりついたのだろう。  現場保存のためのロープを張って、刑事たちは山下警察署に引き上げた。名刺にある電話番号に電話したが通じなかった。東京の青山の反町のマンションには誰もいないのだ。  反町のアドレス帳が、鑑識でコピーされてもどって来た。もちろんアドレス帳も濡れていた。それを伸ばしてコピーしたのだ。反町という名前があった。八王子だった。そこへ電話した。反町悠介というと、わたしの息子です、と言った。電話に出たのは母親だったようだ。  身元確認と遺体引き取りに来署願った。もちろん、遺体はまだ病院からもどって来ていない。 「ずいぶん、女の名前が多いな」  と来須《くるす》刑事が言った。来須|大造《だいぞう》、部長刑事で四十六歳である。 「商売柄、女とつき合うのが多いのだろう」  的場章一郎《まとばしよういちろう》が言った。警部補で三十六歳になる。 「このアドレス帳の中に犯人がいるのかな」 「アドレス帳の人たちを一人一人当ってもらうことになるな。いまのうちに分担を決めておいてくれ」  捜査課長の宗形吉康《むなかたよしやす》が言った。捜査本部が開かれるのは明日になるだろう。神奈川県警からも応援が来るはずだ。  アドレス帳のコピーを見ていた刑事が、妙な声をあげた。 「鏑木一行《かぶらぎいつこう》って聞いたことないか」 「鏑木か、聞いたことあるな」 「そうだ、以前県警にいたやつだ。おれは一度だけだけど組んだことがある」 「鏑木が、反町と知り合いだったのか」 「アドレス帳にあるから、何かのつながりはあるのだろうな」 「あいつは悪党だからな」  刑事の一人がダイヤルを回した。電話はすぐにつながった。 「鏑木さんですね」  とまず念を押すように言った。そうですと答えた。 「こちらは横浜の山下警察署ですが、反町悠介さんを知っていますね」  相手は一呼吸考えた。 「ああ知っている、カメラマンだろう」 「その反町さんが亡くなりました」 「事件か、殺しか」 「そのようですが、まだ判明していません」 「反町が殺されたのか、どこで、いつのことだ」 「今日、六時ころ、山下公園です」 「わかった、これから行くよ」  と言って電話を切った。鏑木は神奈川県警捜査一課の刑事だった。たしか懲戒免職になったはずだ。 「いま、鏑木は何をしているんだい」 「わからないね、聞いてみなければ」  鑑識から反町の所持品を持って来た。海水に濡れていたものが乾かされてあった。現場からも、また所持品からも何も出なかった。指紋は数多くとれたが、公園である。整理してもたいしたものは出て来ない。つまり期待できないということだ。  手掛りがあるとすれば、アドレス帳だけだ。反町の住所は東京である。多くの刑事たちが東京に出張することになる。 「今度の事件は簡単にいきそうもないぞ」  と宗形課長が言った。  事件を聞きつけて、新聞社が来ているという。発表しないわけにはいかない。殺人事件であることははっきりしている。  病院から死体検案書はまだ来ていない。遺体ももどって来ていないのだ。まだ発表の時期ではなかった。家族が来て、鏑木一行が来れば、また何かがわかるだろう。 「反町はなんで山下公園に来たんだろうね。仕事ではなかったはずだ。カメラマンとしての道具もないし、ちゃんと背広を着ていた。誰かと待ち合わせたのかな。会う相手は女だったのかな」  いまはすべて推測でしかない。だが推測も必要なのだ。  遺体がもどり、死体検案書が届いた。解剖報告書である。  体内に二発の弾丸が残っていた。22口径の弾丸だった。小型拳銃である。鑑識で機種が確認された。ジュニアコルト、コルト社のポケットピストルである。22口径と25口径がある。使用されたのは22口径である。全長一二センチ、重量三七〇グラム、装弾数は七プラス一となっている。つまり八発である。  全長一二センチで三七〇グラム、楽にポケットに入る大きさである。このジュニアコルトは、一九六八年に製造が中止されているという。だから使用された拳銃はかなり古いものということになる。現在、日本には多くの拳銃が流れ込んで来ているという。その一丁なのだろう。  死亡推定時刻は、ほぼ午後六時二十分とされた。射たれたと思われるとき何人かの目撃者がいたこともある。死因は銃弾による心臓の損傷死である。海水はのんでいなかった。水面に落下したときには死んでいたものと思われる。マネキン人形が落ちたようだったという目撃者の証言とも一致するわけだ。トレンチコートの着用だけが疑問として残った。     2  同じ四月二十四日——。  寝台特急東京行『はやぶさ』は始発が西鹿児島である。発車が一三時一〇分。  六輛編成で、六号車を先頭にして西鹿児島駅を発車した。六輛ともB寝台といわれる二段の寝台がついている。ごく一般的な寝台車である。熊本駅で七号車から十四号車までの八輛が六号車の前に連結される。七号車と十号車・十一号車・十四号車はB寝台、八号車が食堂車、九号車がロビーカー、十二号車がBの個室車、十三号車がAの個室車、ABともにシングル、つまり一人用の個室である。熊本からは十四号車を先頭にして走る。 『はやぶさ』が熊本に着くのが一六時一九分、発車が一六時三五分。十六分の停車ということになる。車輛を連結するのでそれだけの時間がかかるのだ。  佐伯《さえき》車掌は『はやぶさ』に乗務していた。もちろん、熊本から乗って来る客は多い。西鹿児島から乗ったA個室、B個室の客は、移動して来ることになる。佐伯はまだ停車中から、車内改札をはじめた。寝台はすべて指定席になっている。それで乗客控をチェックしていく。  佐伯は、十二号車三番室の乗客を覚えていた。二十七、八歳とみえる派手な顔をした女だった。派手というのは化粧が濃いというのではなく目鼻立ちがはっきりしていたということだ。もちろんアイシャドウなど入れて、化粧も多分に厚かった。身長も一六三〜四センチはあった。佐伯は一七〇に少し足りないくらいの身長である。女はハイヒールをはいていたので、佐伯と同じくらいはあった。  体はよく発達していた。胸の膨らみも腰の大きさも充分だった。この女の行き先は東京になっていた。  佐伯も男である。いい女は気になるものである。もちろん特別な目で見たりはしない。  ちょっとその女のベッドシーンを妄想してみたりする。わりに大柄な女だ。ベッドでは凄いだろうなと、妄想もその辺が限度である。もちろん佐伯などには縁のない女である。妻と比べてみて苦笑する。とにかく目立つ女だった。  その女が三番室から転がり出て来たのは、列車が熊本駅を発車してから十五分ほど経ったころだった。乗客の知らせで佐伯は駆けつけた。女が通路に転がり出て来て咽《のど》を掻きむしりながら苦しんでいる。  急病なのか、と思った。他の車掌が車内放送で医者を求める。佐伯は女のそばにしゃがみ込んだ。そして肩をゆすった。 「お客さま、どうされました。お客さま」  女は苦しみ悶《もだ》えながら、嗄《か》れた声で、 「ナ、カ、シ、モ」  と、とぎれとぎれに言った。  苦しむにも体力がいる。女は悶える。スカートがめくれ返って太腿をさらしていた。どきっとなるような色気だった。佐伯はスカートの乱れを直してやった。乗客が集まりはじめていたのだ。佐伯にしてやれるのは、それくらいのものだった。  若い医師がカバンを持って駆けつけてくれたのでホッとした。そのとき佐伯は腕時計を見た。十七時に一分ほど前だった。  次の停車駅は一七時一五分に大牟田《おおむた》駅である。 「何か毒物を飲んでますね」  と医師が言った。 「吐かせるわけにはいきませんか」 「無理でしょうね」 「毒って、青酸とか」 「いいえ青酸ではないでしょう。青酸は即効ですから苦しみも短いはずです。農薬のたぐいでしょうね」  女の悶え方は弱くなっていた。苦しむのに体力がなくなって来たのだろう。医者が注射を射った。すると、女はまた苦しみが強くなった。 「次の大牟田で降ろしたいのですが」 「無理でしょうね」  医師は女の脈を取っている。すでに手のほどこしようがないようだ。だが、車掌としては何かの方法を取らなければならない。  列車は大牟田駅に着いた。車掌がホームを走る。駅長と駅員二人が担架を持って走って来た。  とりあえず女を担架に乗せて運び出そうというわけだ。だが、医師が、 「亡くなりました。五時二十分です」  と言った。駅長と佐伯は顔を見合わせた。まだ息があればとにかく、死亡したものを降ろすわけにはいかない。車内で死亡したときにはそのまま終着駅まで運ぶことになっている。それに女の行き先は東京である。  自殺、事故、他殺、その辺のことはわからない。変死であることは間違いない。このあたりで大きな駅は博多である。駅長に博多の鉄道警察隊に連絡してくれるように頼んだ。  死体をそのままにしておくわけにはいかない。通路なのだ。十四号車・十三号車・十二号車の乗客たちは、食堂車、ロビーカーに行くにはこの通路を通るのだ。死体を横たえておくわけにはいかない。駅員二人に手伝ってもらって、ベッドに運び込んだ。そして佐伯がドアをロックした。  列車は十分遅れで大牟田駅を発車した。列車は久留米《くるめ》、鳥栖《とす》と停まり、博多には定刻なら一八時一七分に着く。一分停車である。  博多駅から二人の刑事と鑑識課員が乗り込んで来た。大牟田駅から連絡を受けて、他殺かもしれないと考えたのだろう。初動捜査がのちのち影響することになる。  佐伯車掌は、十二号車に行った。訊問を受ける立場である。女の持ち物の中から運転免許証が出て来た。その免許証の名前は立見史子《たつみふみこ》となっている。年齢は二十八歳だった。女は立見史子という名前らしい。 「車内改札したときに何か変ったところは?」 「ありませんでした」 「乗客が先に騒いだのですね」 「乗客に呼ばれて、わたしは駆けつけました」 「まだ、そのときには息があったのですね」 「はい、しきりに苦しがっておられましたが」 「何か言いませんでしたか」 「ナカシモ、たしかそんなふうに聞こえましたが」 「ナカシモね」  いま一人の刑事が手帳にメモする。 「ナカシモ、人の名前ですかね」  もちろん、ナカシモだけではわからない。死にかけている人が一番口にしたいのは犯人の名前だろう。もっともまだ他殺と決ったわけではない。  彼女の持ち物の中からは、遺書らしきものは出て来なかった。第一、列車の中で自殺するとは考えられない。改札のときにはそんな様子はなかった。事故で毒を飲むわけはないだろう、とすると他殺の線しか浮かんで来ない。  鑑識課員は、個室車の中を這《は》いまわっていた。まずは指紋採取である。次はホコリ、チリのたぐい、あるいは毛髪である。  立見史子が苦しみ出したのは、列車が熊本を出てから十五分ほど、つまり十六時五十分ころということになる。死亡時刻が十七時二十分、立見は三十分ほども苦しんだことになる。  青酸だったら、これほどには苦しまなかったはずだ、と刑事たちも思った。もっとも毒の量にもよるだろうが。  他殺とすると、犯人がいることになる。乗客も佐伯車掌も、それらしい怪しい影は見ていない。  佐伯は十四号車から車内改札をした。まだ車輛が連結される前、この車輛は始発と同じだから先に客は乗せていた。だから、西鹿児島からの列車が着く前、十六時十五分ころだったと思う。もちろん立見史子は乗車していた。改札したときの様子を思い出してみる。史子の身長がわかったのは彼女が立っていたからである。寝台はそのときには座席になっている。それを寝台に直すのだ。肘掛を上にあげシートを前に出す。それで寝台になる。その方法を教えた。  シングルの個室だから当然一人である。もっとも二人入れないことはない。抱き合って寝れば二人寝られる。個室に男か女が入り込むことがあるのだ。内からカギを掛けてしまえばわからない。そういう客もたまにはいる。だが、車掌はよほどのことがない限りは干渉しないのだ。  佐伯はキップにハサミを入れながら、通路に立っている黒い影を見たような気がした。はっきりとは見ていない。男の影だったように思う。もちろん、他の部屋の乗客だったのかもしれない。その辺は自信がない。  彼は推理する。男は、十六時五十分ころ、立見の個室に来る。そして何か理由をつけて彼女に毒を飲ませる。そして男は素早く姿を消す。大牟田でも久留米、鳥栖でも降りられる。あるいは博多か。あるいはまだこの列車に乗っているのかもしれない。どこかに席をとっていればわからないわけだ。  佐伯はそのことを刑事に話した。刑事二人はふんふんと聞いていた。 「あなたが見た黒い影というのは、もう少しくわしくわかりませんか」 「見たわけではありません。視界に入っていたというだけです。もちろん、他の乗客だったのかもしれませんし、ぼくの推理だけです」 「そういう可能性がないわけではないな。たしかに男だったんですね」 「ええ、男だったと思います。色あいからしてそうでした」  彼女が持っていたのは旅行カバンとハンドバッグだった。連れがいるようには見えなかった。連れがいたとしたら、その連れは別に寝台をとっていたのだろう。そして、体を重ねる間だけこの部屋にやって来る。佐伯はそのようにも考えてみる。     3  鏑木《かぶらぎ》一行が横浜の山下警察署についたのは午後十時をすぎていた。捜査室に行く前に、地下の霊安室に向った。そこに刑事と女二人がいた。  台の上に横たわっているのは反町悠介である。二人の女は反町の母親と妹だった。二人とも顔は知らない。刑事に聞かれる前に、 「ぼくは高校のころ反町くんとは同じ組だった鏑木一行です」  と誰にともなく言って、頭を下げた。母と妹が頭を下げた。反町の遺体に向って合掌する。一行はけんめいに言葉を探していた。 「反町くんと会ったのは昨年だったかな。カメラマンとして忙しそうでした。まだまだこれからというのに惜しい男を亡くしました」  もちろん、何を言っても母と妹にはむなしいことだろう。 「とりあえず、上の部屋のほうに。いま車の手配をしていますから」  遺体は八王子の自宅に運ばれることになる。母と妹は刑事にうながされて、霊安室を出る。一行はそのあとに続いた。  刑事室は騒々しいので署長室に案内された。一行は従者のようにあとに続き、母子《おやこ》がソファに坐ると、一行はその後ろに立った。  そこで事情聴取がはじまる。刑事が顔を出して、 「鏑木さん、ちょっと」  と言った。呼んだのは来須《くるす》刑事だった。 「ああ、来須さん、ここにいたのですか」  とわざと声をあげた。来須とは以前一緒に組んだことがあるのだ。 「ぼくも、八王子までお供させていただきますので」  と母子に言って部屋を出た。 「鏑木さん、どうもしばらく、いま何をしているんですか」 「便利屋だよ、私立探偵なんてものじゃない。県警を辞《や》めてからついていなくてね」  一行は県警を辞めるときには警部補だった。ランクは来須よりも上だったのだ。刑事室に入る。隅に古ぼけたソファがあった。そこに坐る。刑事三人が囲むような形で坐った。来須は椅子を転がして来て坐った。まるで容疑者あつかいだ。 「反町悠介とはどういう知り合いですか」 「高校の同窓だよ」 「反町のことをどれくらい知っている」 「さあね、質問にもよるけどな」 「反町はどういう男だった」 「反町家というのは、代々八王子の地主でね。まだだいぶ山林や田畑があるんじゃないかな。悠介は次男坊で高校のときの成績はあまりよくなかった。おれとどっこいどっこいだ。大学も私立だったな。でも、背が高くて二枚目、それにカメラマン、金はいくらでもあると来れば女にモテないわけはない。口説《くど》き方がうまいんだ。女にコナを掛けるということを知っているか。いい女とみると、声をかける。自分を印象づけておく。そして次に会ったときには、昔からの知り合いのように声をかける。たいていはこの手で女は引っかかる。それにマメなんだ。どんないい男でもマメでなくちゃ女はモノにできない」 「ちょっと鏑木さん」  と刑事の一人が一行の喋《しやべ》りを止めた。止めないといつまで喋っているかわからないのだ。 「おれは悠介のことを喋っているんだけど」 「鏑木さん、あなたは、今日どこにいました。午後六時ころだけど」 「おれのアリバイ?」 「あなたも関係者ということになる。反町のアドレス帳に名前がありましたからね」 「おれのアリバイね、ないんじゃないかな。アパートにいて、昼メシ食いに出て、ついでにパチンコやって、町をぶらぶらして、アパートに帰りテレビを見ていたところにこちらから電話だ。アリバイのあるような暮しはしていないのでね」 「どうして急いでここまで来たんだ」 「わかっているじゃないか。仕事にありつくためさ。反町家におれを雇ってもらいたくてね、それですっとんで来た。でなきゃ、こんな夜遅く横浜まで来やしないよ。もっともまだ雇ってもらえるかどうかわからないけどね」 「この事件に首を突っこもうというのか」 「こちらの邪魔はしませんよ。反町悠介って男を調べてみるのも面白いんじゃないかな。友だちと言っても、ほとんど知っちゃいないからね」 「反町は誰に殺されたと思う?」 「女だろうね。少なくとも女が絡んでいる」 「小型拳銃で背中から二発射たれていた」 「小型拳銃なら女でも射てるね」 「反町はどうして山下公園にいたんだろう」 「女と待ち合わせたのさ、女のことだったらどこまでだって行くやつだからね。北海道だって沖縄だって行くんじゃないかな。好きな女に会うためだったら。横浜なんて近いほうだよ、東京と同じようなものだからね。おれから何か聞こうったって、おれだってまだ何も知らないんだ」 「もういいよ、八王子まで行くんだろう。そろそろ柩《ひつぎ》を積んだ車が出るころだ」  それじゃ、と一行は立ち上った。後で、よく喋る男だ、と呟く刑事の声が聞こえた。一行がお喋りになったのは県警を辞めてからだった。  柩を積んだのは黒塗りのバンだった。葬儀社の車だろう。車は発車寸前だった。もちろん一行が同乗できる余裕はない。 「ぼくはあとから行きますから」  と一行は言った。まだ電車はあるはずだった。 「待って」  と言って悠介の妹が車から降りて来た。 「お母さん、先に行って、あたし、鏑木さんとタクシーで行くわ」  と、そして一行に、 「それでいいですね、あたし兄さんのことをお聞きしたいの」  と母親に聞こえるように言った。  黒いバンはスタートした。妹は一行をうながして通りへ出た。そして走って来たタクシーを止めた。彼女は先にシートに乗った。 「八王子」  と運転手に言った。車が走り出す。 「あたし、靖子《やすこ》です。鏑木さんのこと兄に聞いていたんです。硬派で空手をやる人って」 「それは有難いな、自己紹介する手間がはぶけた」  もっとも一行は靖子のことはあまり聞いていない。たしか結婚したと聞いたことがあった。悠介が二枚目なだけ靖子も美人である。一般的な美人ではない。全体に見て美人である。個性的だ。  一行も靖子と一緒できるのは助かる。もちろんタクシー代は彼女が払うことになる。横浜から八王子となると一万円は出るだろう。一行にはその金がなかった。 「兄さんを殺した犯人を探し出したいわけだ」 「兄は自業自得《じごうじとく》よ。もちろん兄だから悲しくないわけじゃないんだけど。お母さんって泣き虫なの。さっきから泣いてばかりいるの。一緒にいるの少し気が重かったから」 「そりゃ、親にとっては悲しいですよ。子供に先立たれるなんてね。最大の親不孝だ。ぼくだって親が死ぬまでは生きていてやろうと思いますよ」  相手によってボクとオレを使い分ける。靖子には印象を悪くしたくなかった。仕事にありつけるかもしれない可能性が大きくなったと思い込んでいる。 「鏑木さんって、叩いても殺しても死なないみたい」 「そんなにごついですか」 「何となくイメージがよ。強いんでしょう」 「それほどでもありませんよ。話は変るけど、結婚されたと聞いていましたけど」 「もう別れたわ」 「別れたんですか」 「あたしって駄目ね。いいかげんにくっついちゃうからすぐ別れちゃうの。学生結婚だったの。結婚するまではすごくいい人に見えたんだけど、結婚してしまうと欠点ばかり見えて来ちゃうのね。それでいやになって別れちゃった」 「ご主人に女がいたとか」 「冗談じゃないわ。そんな勇気があったら見直しちゃう。本人は逆玉のつもりだったのよね。玉の輿《こし》の反対。それで妙に卑屈になっちゃってね、何をするにもあたしに決めさせるの。マザコンだったのかしら。いつもオロオロしているの。自分のやることに自信がないのね、学生のころはそうじゃなかったんだけど。男って結婚すると変るのかしら、いいとこもあったんだけど」  靖子は悠介とは四つ違いだった。悠介が三十二歳だったから、靖子は二十八ということになる。 「女は一度結婚するとキズ物なのね、昔風に言えば出もどりよ。いまでも出もどりって言うんじゃないかな」 「それは、古いですよ」 「意外にこういうことって社会の中に残っているものなの。母も父も、あたしをキズ物だと思っているわ。もっとも、あたしが遊んでいたって影響はないの。家にいてもつまんないから働こうと思っているの」  と言って、しばらくして、靖子はクスンとなった。 「兄さんだって悪い人じゃなかったわ、ただ女好きだってことだけで。でも、やはり悪かったのかしら、高校のときに女子高生を妊娠させて、父が慰謝料払ったみたいだけど、あの子、いまどうしているのかしら」 「悠介に捨てられて自殺したような女はいませんでしたか」 「そう言えば、そんなことあったみたい。思い出せないけど。あたしが結婚してからだったかしら」 「そのことを調べておいてくれませんか」 「あら、鏑木さん、兄の犯人探しをやって下さるの」 「そのことを先に話しておかなければいけなかった。そう、悠介を殺した犯人をつきとめたい。だけどぼくには金がないんですよ。反町家でぼくを調査員として雇ってもらうわけにはいきませんか。私立探偵の看板を上げても、客がないんですよね」  靖子は、ふふっ、と笑った。 「鏑木さんって正直なのね。回りくどいことおっしゃらないわ」 「申しわけありません。山下署から電話がかかって来たとき、これは仕事にありつけるな、と思ったんです。正直なところ」 「そう、あたしがお願いしてもいいんだけど、父に話してみるわ。父から調査依頼があったほうがいいでしょう」 「ぼくにはどちらでも、仕事になればいいですよ」 「そうだわ、あたしを助手として使って下さらない。あたしがいるほうが便利ってこともあるわ。あたし退屈していたの。これで仕事ができたわ。よかった、鏑木さんと会えて。母みたいに湿《しめ》っぽいのってやりきれないの。兄が死んでたしかに哀しいけど、いくら哀しんでも兄は生き返るわけはないし。ほんと言うと、うんざりしていたのよ」  うんざりしていたのよ、と言いながら、やはりホロリとした。彼女がよく喋るのは、あるいは悠介の死を忘れようとしているからかもしれない。喋りながらポトリと涙を落す。 「兄はね、私大を出て、カメラマンになりたくて写真部のある大学に入り直したの。女たらしだけど勉強家だったわ。写真をやりながら文章も書いているみたいだった。週刊誌か月刊誌の記事、ルポルタージュみたいなものを書きたかったのかもしれない」  そのことは一行も知らなかった。 「ただの反町家の坊ちゃんではいたくなかったのね。父から独立したかったのよ。母に言わせると、けんめいに親ばなれをしたかったみたい。あたしとはわりに喋ったけど、父とはほとんど口をきかなかったみたい。母がよくこぼしていたわ」  悠介の父親祐一郎は材木店を経営していて、市会議員でもいくつかの会社の役員をしている。そのことは一行も以前から聞いていた。以前は自分の山、あるいは山を買って製材所も兼ねていたが、いまは材木は輸入ものばかりあつかっている。  祐一郎が一代で材木店を大きくした。田畑もまだかなり持っている。悠介はそういう父を見返してやろうとしていた。つまり父親を乗り越えたかったのだ。悠介は父を乗り越える前に死んでしまったのだ。カメラマンとして、あるいはノンフィクション作家として売り出していたかもしれないのだ。 「今日は遅いから、お通夜は明日ね、そしてその翌日がお葬式。ねえ、明日、青山の兄のマンションに行ってみない。たいした証拠が掴めるとは思わないけど」 「それはいい、靖子さんがいるとそういうこともできるわけだ。ぼくだけマンションに行っても入れてくれないだろうからね」 「早いほうがいいわね、警察の手がのびるかもしれないし」  タクシーは八王子に着いた。深夜だというのに葬儀屋が来て祭壇を作りはじめていた。そばには悠介の柩がある。そのそばに母親はペタリと坐り込んでいた。  靖子は祐一郎に一行を紹介した。祐一郎は憮然としていた。息子が死んだのだ。機嫌よくはしていられない。 「お父さま、こちらは兄さんの親友だった鏑木さん。わざわざ山下警察署まで来ていただいたの。兄さんの事件を調べたいとおっしゃるのよ。ねえ調査員として働いてもらっていいでしょう」 「鏑木一行です、よろしく」  と名刺をさし出した。 「もと神奈川県警にいらしたの、調査は専門よ。お父さまだって、誰が犯人か知りたいでしょう」 「その話はまたにしよう。いまはそれどころではない」 「いいわ、またにするわ」  靖子は一行をうながした。     4  翌二十五日、水曜日——。  高円寺の駅ホームで靖子と待ち合わせた。一行は、中央線の高円寺駅から十五分ほど歩いたところにあるアパートに住んでいる。路地の中で車も通らない。だから場所にしては部屋代はわりに安い。いま、駐車場のないアパートなんて借り手は少ないわけだ。  昨夜、反町祐一郎は一行に対してそっけなかった。うさんくさい男に見えたのだろう。名刺には私立探偵などと刷り込んである。警察を辞めた元刑事などと言っても、まともな人が信用するはずはないのだ。  警察手帳を持っていてこそ、刑事は社会的に信用があるのだ。警察を辞めた男なんて、人間の屑《くず》だろう。  一行は身長は一七五センチある。体重は六五キロ、いまでは中肉中背というところだろう。もっとも柔道をやり空手をやる。がっしりした体をしていた。空手三段、柔道も三段である。格闘技には自信があった。  つまらんことで懲戒免職になってしまった。一人の女と親しくなった。ところがその女の兄というのが暴力団員だった。その男が他の暴力団との抗争でピストルを射った。それで逮捕され、その男がペロリと喋ってしまった。おれの妹の亭主は刑事だぞ、と。それで問題になった。もちろん結婚はしていなかったが男と女の関係にあった。  警察ではこのような関係を嫌う。もちろん懲戒免職になった理由はそれだけではなかった。つまり、そういう男はうさんくさいのだ。人はつき合いたがらない。  一行はこのところ、まともに飯が食えていなかった。探偵の仕事などあるわけはないし、便利屋という仕事もそれほど金にならないばかりか疲れる。刑事は刑事だけの能力しかないものだ。猛者《もさ》刑事と言われながら、社会に出てみると、何の役にも立たないのだ。反町悠介が殺された、と聞いてとびついたのは当然だったのだ。  電車がホームに滑り込んで来た。電車の中から靖子が手を振っているのが見えた。開いたドアから乗る。改めて靖子を見た。背が高くてプロポーションがいい。人目を引くいい女なのだ。足が長いし、足の形がいい。それに首が長い。美人の条件は揃っている。昨日とはまた違ったムードだ。 「なかなかいいですね」 「何が?」 「靖子さんがですよ、ファッションモデルでもおかしくない」 「お世辞言っても駄目よ」  靖子はハンドバッグの中から紙包みを出した。 「何です、それは?」 「お金よ、調査費は必要でしょう。五十万入っているわ」 「すると、お父さんが承知してくれたんですか」 「父はまだだめよ、兄のショックからまだ抜けていないわ。昨夜は一人で泣いていたみたい。やっぱり父親なのね。このお金あたしの預金から下ろして来たのよ」 「それじゃ、いただけないな」 「あたしが調査依頼者でもいいわ。初動捜査って言うんでしょう。早く手を打ったほうがいいんじゃないかしら」 「それはそうだけど」 「さあ、受け取ってよ。父は落ちついてから口説くわ。大丈夫よ、あたしだってもう二十八よ、鏑木さんに、兄を殺した犯人をつきとめて欲しいの」 「わかりました」  と言って紙包みを内ポケットに入れた。やっぱり、いま一番欲しいのは金だった。金がないと気持まで小さくなってしまう。  電車を新宿で山手線に乗り換えた。そして渋谷で降りる。渋谷から歩いていけるところに悠介のマンションがあるようだ。渋谷駅から十分ほど歩いたところに八階建てのマンションがあった。  管理人に、靖子が事情を話した。もちろん靖子はキーを持っていない。頭の禿《は》げた体の細い管理人が、マスターキーを持って出て来た。停年退職者だろう。 「そんなことがあったんですか、それは知りませんでした、テレビはずっと見ていたんですがね」  と言いながら、エレベーターに乗る。五階だった。五一二号室、管理人がキーをさし込みドアを開けた。ドアは自動的にロックされる型のものである。 「帰りに管理人室にお寄り下さい」  と言った。賃貸ではない。悠介の父が買ったものである。このあたりではかなりの値段がするものと思えた。  部屋は二LDKである。一人で住むには広すぎる。管理人の顔ではまだ警察は来ていないようだ。カメラの機材が片隅に積んである。机の上には原稿用紙が広げてあった。洋ダンス和ダンスも作りつけである。  応接三点セットが置いてある。そのソファに坐って、一行はキャスターに火をつけた。そして部屋の中を見渡す。いきなり家探ししても何かがみつかるというものでもない。靖子も向いに坐った。 「この部屋には女の臭いがするわ、女を連れ込んでいたのね」  ドアのむこうは寝室になっている。そこにはダブルベッドが置いてあった。ベッドの周りにはファッション雑誌がちらばっている。また脱いだばかりと思えるパジャマが置いてあった。  たしかに女を連れ込むには、いい場所でもある。立地条件もいい。 「あたし、この部屋にははじめて来たの。兄がいなくなったのだから、あたしが住もうかしら」  机のわきの書棚には本や雑誌がいっぱいつめ込まれている。目当てとするのは日記のたぐいだろう。 「あたし、バス使ってくるわ」  と靖子はバスルームに入った。一行は悠介の机の周辺を探る。何を探すという目的があるわけではなかった。  机の曳《ひ》き出しを開け、中をひっくり返してみる。本棚の本を抜いてペラペラとめくってみる。何か慢然とそうしていた。何か気になるものというのはない。  机の上には何冊かの本が立ててある。スケジュール表がある。撮影のスケジュールだろう。二十四日の欄には�M�とあった。Mとは何なのか。  日記帳を引っぱり出した。そしてペラペラとめくる。四月二十四日以降は空白だった。二十三日のページにM子とあった。スケジュール表のMと同じ意味なのだろうか。  一行は日記帳を持ってソファにもどった。そして日記を読みはじめる。日記は人の秘密を覗《のぞ》くようで面白い。胸がわくわくするのだ。悠介はわりに克明に書いていた。その日の出来事からそれに関する私感みたいなものがある。ドキュメンタリーかノンフィクションを書くつもりだったのだから、自分の思いを文字にする習慣をつけておきたかったのだろう。女のこともくわしく書いている。形態から印象、そして性格まで。  まだ、四月である。その四ヵ月の間に五人の女のことが書いてある。いずれもイニシャルだが。五人の女とつき合ったということだろう。その中の一人がM子である。スケジュール表のMがM子なら、その日、横浜の山下公園で会ったのはM子ということになる。ページの後ろのほうにアドレスがあった。もちろん何年か前からの知人友人のアドレスだろう。鏑木一行の名前もあった。その中に女の名前が多い。この中からMに当る名前の女を探し出せばいいのか。  もちろん、MがM子とは限らない。あるいはMは男かもしれないのだ。悠介は背中から二発、銃弾を射ち込まれていた。口径は22インチ、ポケット拳銃である。アメリカあたりでは女性の護身用に使われているという。つまり女でも使える。また、小型拳銃だから女が使ったとは限らない。  アドレスから、一行は名前を抜き書きしはじめた。女の場合は、名前だろう。マリコとかマサコとかマイコとか。Mが男だとすればこれは姓のほうだろう。両方を手帳に書き写す。  バスルームから靖子が出て来た。スリップ姿だった。一行はドキッとなった。スリップ姿の女なんてテレビなどでは珍らしくない。だが二人だけの部屋である。日記帳をテーブルの上に置いた。  靖子は寝室に入っていく。一行はおれを誘っているのか、と呟いた。それとも一行は安心できる男だと思っているのか。頭がカーッとなった。胸がドキドキした。チャンスなのかもしれない。どうせ相手は出もどり娘だ。さまざまな思いが頭の中で渦を巻く。 「据《す》え膳《ぜん》なのだ」  と低く呟いた。寝室に行く。靖子はベッドに長々と寝そべっている。シルクのスリップだろう。光沢《こうたく》のある柔らかそうな布で半透明だ。裾が少しめくれて、大腿の一部を見せていた。一行は上着を脱いだ。そのまま靖子の体にのしかかっていく。  靖子の体がビクッと動いた。 「いやーっ、何するの、止めて」  と抵抗する。こいつは違ったかな、と思った。たしかに靖子の抵抗は強かった。それを押えつけて、スリップをめくる。下にはパンティがあった。それを脱がせようとする。こんなときに、女の下着というのはなかなか脱がせられないものである。  だが、ここまで来ては止められない。スリップの上から乳房を掴んだ。ブラジャーはなかった。乳房の感触がそのまま伝わってくる。もちろん感触を味わっているような余裕はない。  暴力団員の妹の場合もそうだった。女のほうから誘ったのだ。誘っておいていざとなると抵抗した。それを無理やり押し通した。体力もあり腕力もあるのだ。女は抵抗すれば男にはレイプできないという。だが、そんなことは嘘だ。男がその気になれば、いくらでもレイプできる。  一行は、スリップの上から乳房を咥《くわ》えた。そしてパンティを脱がせようとする。もちろん、靖子は抵抗する。  ふと、悠介の通夜であることを思い出した。友だちの通夜に友だちの妹をレイプする。これはおかしいんじゃないかと。とたんに力が萎《な》えた。欲望が萎えてしまったのだ。靖子から離れると寝室を出ようとする。 「どうしたっていうの」  靖子が声をかけた。彼女はベッドの上に坐っていた。 「悠介が死んだことを思い出したんだ」  振り向いて靖子と目が合った。彼女の目は潤《うる》んでいた。 「それがどうしたの」 「おれも、ただの男だったってことに気付いただけさ」 「あたしに恥をかかせないで」  おや、と思った。彼女ははじめからその気だったんだ。そう、その通りだ。靖子のような女に恥をかかせてはいけないのだ。おそらく矜《ほこ》りの高い女だろう。男に抱かれる気がなければ、男の前でバスに入ったりはしないだろう。  一行は黙ってネクタイを解き、ワイシャツを脱ぎ、ズボンとパンツを脱いだ。素っ裸になったのだ。靖子が目を見開いた。そのままベッドに転がり込む。今度は彼女も抵抗しなかった。  唇を重ねた。彼女のほうから吸いついて来た。彼の手は乳房を揉み、そして腰を引き寄せた。腰から尻のあたりを撫でまわす。スリップをめくりパンティをずり下げる。今度は協力的だった。スリップの肩紐をずり下げた。乳房が姿を見せた。彼には少し大きめの膨らみだった。乳首が紅い。その乳首がしこっていた。乳首を摘《つま》んでひねると、ふむ、と声をあげた。女の足が男の足を求めた。男の足を股間に誘い込む。そして思いきり締めつけた。  二章 愛欲の果て     1  四月二十六日、木曜日——。  丸の内北署に、『はやぶさ』殺人事件捜査本部ができた。  西鹿児島発寝台特急『はやぶさ』の十二号車三番室で、立見史子が死んだ。史子の体内から検出されたのは農薬の一種だった。どうやって飲んだのかはわからない。自殺とは思えない。また事故も考えられなかった。誰かに飲まされたのだ。北署では殺人事件と断定した。  立見史子は生家が熊本にあった。実家から東京にもどる途中だったと思われる。東京では一応はファッションデザイナーだった。青山のブティックで働いていた。彼女はマンションに住んでいた。ブティックの給料でマンションに住めるものかどうか、その辺のことはこれからの捜査である。  博多署の鑑識課員が動いてくれたが、ほとんど何も出なかった。多くの指紋は出たが、いまそれの分析を急いでいる。  本部長は北署の署長である。捜査主任には藤井泰平警部がなった。警視庁から十人ほどが応援に来た。  被害者は最後に一言言っている。 「ナカシモ」  である。それを車掌が聞いている。ダイイングメッセージだ。おそらく犯人の名前だろう。ナカシモは中下か。どちらにせよ、犯人はすぐに割れるものと思えた。  立見史子は、アドレス帳を持っていた。これをめくったが、ナカシモに当る名前はなかった。捜査員たちは、史子の周辺とアドレス帳にある人物たちを一人一人当りはじめた。 『はやぶさ』は、熊本駅を一六時三五分に発車する。その一五分のち、一六時五十分ころから立見史子は苦しみはじめた。農薬を飲めば、その瞬間から苦しみはじめる。死亡したのは一七時二十分、すると三十分は苦しんだことになる。農薬の量が少なかったのか。致死量を飲めば、それほど長い時間生きていられないはずだ。農薬を飲んでどれくらい生きていられるかは実証できない。体力、農薬の量、そして種類によって、それなりの違いは出てくるものだろう。  犯人は史子に一六時五十分の少し前に農薬を飲ませた。大牟田には一七時一五分に着く。犯人は大牟田で降りたのか、そのまま列車に乗っていたのか。博多までは寝台券がなくても立席特急券だけで乗れる。『はやぶさ』から大牟田で降りた者はほとんどいない。降りたとすれば博多だろう。  だが犯人は男とも女ともわからないのだ。探しようがなかった。車掌が黒い影を見たと言っているがこれもはっきりしない。影が男であったとしても、ただの乗客だったのかもしれない。車内改札のとき、車掌の目につくかもしれないのに、犯人がその辺をうろうろしているわけはない、とも言える。  藤井主任は、電話で熊本警察署に、立見史子の周辺にナカシモという人物がいるかどうかを問い合わせた。熊本署では刑事が立見家に行き、あるいは学生時代の知人友人を探ってくれるはずである。  昨日、立見家の人たちが史子の遺体引き取りに来た。もちろん、そのときにも訊問はしている。史子の父親も、そして兄も、ナカシモには思い当るところがなかった。  犯人は東京の人間とは限らないのだ。またナカシモが人の名前とは断言できない。地名かもしれないし、他の何かかもしれないのだ。  立見史子の写真が手に入った。なかなかの美人だった。背が高くプロポーションもよかったという。つまり男の目を魅《ひ》く女だったようだ。美人と言っても、どんな美人だったかは写真だけからではわかりにくい。  警部補の内田史朗と巡査部長の平野|忠治《ただはる》が組んだ。内田は三十二歳、平野は五十歳のベテランである。平野は署内では忠治《ちゆうじ》親分で通っている。  内田、平野両刑事がまず会ったのは、史子のアドレス帳にあった松沢京子というOLだった。短大の同窓だということだ。昼休みに近くの喫茶店まで来てもらった。  まず、内田は�ナカシモ�という人を知らないか、と聞いた。京子は首を振った。彼女はずんぐりした肉付きのいい女で美人とは言い難い女だった。年齢は史子と同じである。 「史子が殺されたって? ええ、テレビで見ました。やっぱり、と思いました」 「やっぱりとはどういう意味ですか」 「男をからかうのが好きだったから、男の恨みを買ったのね。史子を憎んでいた男って多いんじゃないかしら」 「具体的に話してもらえると助かるんですが」 「男に言わせると性悪《しようわる》女というのかしら、男をからかうのが趣味だったのよ。何って歌だったかしら、さんざ遊んで転がして、あとはあっさり捨てる気か、って。さんざんからかっておいて男をその気にさせておいて捨てるの」 「そういうケースがあったんですね」 「ええ、あったわ。具体例ね。あたしがつき合っていた坂本さんって人がいるの。ただのボーイフレンドだったけど、あたしが坂本さんと渋谷でデートしているとき、史子とばったり会ったの。史子って、プロポーションもよくて美人でしょう。でもツンと澄ましてなんかいないのね。愛嬌があるというのかしら、おれなんか手のとどかない女とは思わせないのね。だから、たいていの男はもしかしたらという期待をいだくわけよ。気さくなところがあるの。みせかけかもしれないけど」 「なるほど」 「渋谷のときは、史子も男連れだったのよ。恋人なのかどうか知らないけど、連れの男にかまわず、史子はあたしたちを喫茶店に誘ったの。坂本さんは乗気だったわ。だってあたしと比べるとぜんぜん女が違うのよね。口惜《くや》しいけど、それは認めるわ。史子の彼はいやーな顔をしていた。だって史子と二人でデートのつもりだったはずだから。その男、何って言ったかしら、忘れちゃったけど、ここでは田中ってしておくわね。田中さんは仕方ないから、あたしとお喋りしていた。田中さんは四十くらいだったかしら、どこかの会社の課長だって言っていた。お茶だけのんで別れるのかと思ったら、史子がお酒のみに行こうって言い出したの。まず坂本さんが賛成したわ。あたしと田中さんは仕方なくついて行ったわ。カウンターバアだった。史子が男に挟まれて坐るの。あたしは田中さんの隣りよ。だって坂本さんは史子とばかり話して、あたしのこと忘れているみたいだった。田中さんの隣りに坐るより仕方がないじゃないの。一時間ばかりして、史子と田中さんは店を出て行った。店の払いは田中さんがしたみたいだった」 「立見さんとその田中さんは深い関係にあったのかな」 「もちろんよ。坂本さんは言うのよ。きみの知り合いにあんな美人がいたとはね、って。もうあたしのことなんか眼中にないの。去って行った史子のことをぼんやり思っていたのね。坂本さん、一目で史子に惚れちゃったみたい。坂本さんは史子から名刺をもらったみたいなのね。翌日にでもさっそく電話したんじゃないかしら。史子には男をとりこにする才能があったみたい。その後、坂本さんが史子とベッドを共にしたかどうかは知らないけど、やがては捨てられたらしいわ」 「面白いね。いや失礼、面白がっちゃいけませんね」 「坂本さんはあたしの恋人ってわけじゃなかったわ。まだボーイフレンドというだけだった。だけど、やっぱり口惜しかったわ。恨んでいるのは男ばかりじゃないわね。誘惑された男の恋人や奥さんたちは、史子を恨んでたんじゃないかしら」 「男も女も恨んでいた?」 「あたし、史子と二人でお酒のんだことあるの。史子はよく言っていたわ。男はからかってやるものよ、って。男ってたいてい九十九パーセントは、あたしの体が目的で近づいてくるの。だからその体を利用してやるの。男って浅ましい。ベッドでのとき、あたしがどんな反応をするか、どんな声を出すか、そんなことばかり考えてるのね。そんな目つきをしているの。それが浅ましいのよ。さんざん焦《あせ》らせておいてベッドを共にしてやるの。するともう自分の女みたいな顔するわけ、もちろん、一度あたしを抱いたら二度も三度もやらしてくれる、と思っているわけね。だからさんざん大金使わせて、さんざん焦《じ》らす。男はほとんど狂ったみたいになるわけよ、って。一度触れた史子の肌は忘れられないのね。あたしも男は浅ましいと思うわ。史子は男のそんな浅ましさをうまく利用して遊んでいたわけ。だからいつもスーツなどいいもの着ていた。デザイナーだってお勤めしているんでしょう。そんなお金ないはずだし、それに月に十数万円も払うマンションに住んでいたのよ。男たちから絞り取っていたのよ」 「立見さんにはパトロンみたいな人、いなかったんですかね」 「いたのかしら、いたんでしょうね。でもあたしは知らないわ。史子にからかわれて自殺した男もいたんじゃないかしら」 「自殺した人、誰だかわかりませんか」 「そんなことまで知るわけないでしょう」 「すみません。その坂本さんの連絡先教えてくれませんか。会って話を聞いてみたいんです」 「そうね、坂本さんからだったら、別の話聞けるかもしれないわね」  と京子は坂本の電話番号を教えてくれた。この坂本の名前は史子のアドレス帳にはなかった。史子にとって坂本は雑魚《ざこ》だったのかもしれない。  あら、もうこんな時間だわ、と言って京子はあわてて店を出て行った。  内田と平野は冷めた珈琲《コーヒー》を飲んだ。 「面白いですね、女というのは」  平野忠治が言った。 「彼女のやっかみもあるのでしょうが、立見史子というのは、かなりのワルですね」 「ワルというのではないだろう。たいていの場合、欺《だま》された、あるいはからかわれた男のほうが悪い。彼女も言っていた、男のスケベエ心がね」  と内田刑事は冷静だ。 「男と女の関係となるとたいてい男が悪いということになりますが、そうとばかりは言えませんよ。近ごろの男は弱いですからね。すぐに女に甘えかかる。そして男は見栄っぱりで自惚《うぬぼ》れが強いですからね。彼女はオレに興味があると思ってしまう。そういう男の性格を狙って立見は男をからかう。これはやっぱり史子のほうがワルですよ」 「忠治親分、そこはどうでもいいんだ。彼女のために自殺した男がいると言ったね。その男をつきとめたいね」 「そうですね。先に坂本に連絡をとってみましょう」  と忠治親分は席を立って、レジのほうへ行った。レジのそばに赤電話があったのだ。  立見史子のアドレス帳は手分けして当っている。刑事二人が彼女自身を洗うために熊本に発った。内田と忠治は�ナカシモ�を洗うために動き回っている。もちろん、二人は�ナカシモ�は人の名前だろう、と思っている。死にかけた女がまず口にするのは犯人の名前であるはずだ。もっともいまはまだ�ナカシモ�が男か女かはわかっていない。  忠治がもどって来た。 「どうだった?」 「会うそうです。六時に新橋駅構内の喫茶店で」 「六時か、時間があるな、もう一人当ってみるか」  まだ会わなければならない人はたくさんいるのだ。     2  二人の刑事は、六時少し前に、新橋駅構内にある喫茶店に来た。退社時刻で店内はいっぱいだ。待ち合わせの人たちである。刑事は空席を探した。するとそばの席から男が立ち上った。 「丸の内北署の」  と言った。それが坂本良二だった。坂本の向いの席に刑事は並んで坐る。坂本は目立たないサラリーマンという男だった。背丈もそれほど高くない。どこにでもある顔である。三十歳、まだ独身だという。丸い顔で眼鏡をかけていた。  はじめに聞いたのは�ナカシモ�だった。坂本も知らないと言った。 「立見史子さんのことですね。テレビで見ました。いずれはおいでになると思っていました」  覚悟して出て来たわけだ。 「さっき、松沢京子さんに会って来ました」 「そうですか、彼女には申しわけないことをしました」 「申しわけない?」 「ええ、彼女から立見史子に乗り換えたのですから」 「乗り換えた? というと松沢さんとも男と女の関係にあった?」 「はい、三度ほど」 「そうですか」  と忠治が息をついた。京子はそんなことは言っていなかった。坂本とはただのボーイフレンドだと。すると恋人ということになる。恋人を立見に取られたとは言いたくなかったのだろう。これも女の矜《ほこ》りなのか。もちろん事件には関係ないことだが。 「彼女にお会いになったのなら、もうおわかりでしょう」 「それを坂本さんの口から聞きたいんです」 「男というのは仕方のないものですね。京子だっていい女なんですよ。優しいし、よく気がつくし、二人っきりになると甘えてくれるし、ぼくには似合いの女だったのかもしれません」 「立見史子に誘惑された?」  坂本はしばらく黙った。あるいは京子から史子に乗り換えたことを後悔しているのかもしれない。 「こういう所では、ちょっと話しにくいですね。刑事さんをお誘いしていいものかどうかわかりませんが、酒を呑みながらというのはどうでしょう。もちろん事務的な話でよかったら話しますが」 「そうですね。では、ちょっと待って下さい。本部に連絡して来ます。今日の仕事は終りにしましょう」  忠治は内田に同意を求めた。彼も頷《うなず》いた。忠治は電話に立つ。立見史子という女に興味があった。史子を探ることも仕事である。  忠治がもどって来た。 「酒代は主任が捜査費の中から出すと言っています。もちろん安い酒に限りますが」  と言った。三人は喫茶店を出る。駅の前に大きなビルがある。その中に呑み屋はいっぱいあるのだ。地下に下り、焼き鳥屋に入った。すでに席は満席に近かった。やはり会社帰りのサラリーマンたちだ。隅の席についた。そして焼き鳥とビールをたのむ。ビールのあとは坂本と忠治がハイサワーで内田は日本酒をとった。  坂本はこの店にはよく来るのだそうだ。松沢京子とも来たことがあるという。坂本はビールを一気に空《あ》けた。 「われわれサラリーマンの楽しみはこれだけですからね。ですから、ときどき妙な夢を見ることがあるんです。美人と一度やってみたいなんてね、愚《おろ》かな望みですけどね。それが立見史子だったわけです。もちろん、ぼくなんか手の出る女ではなかった。だけどだんだん望みが出て来たんですね。澄ましてお高く止っているような女だったら、ただ眺めているだけだったんでしょうがね。ところが彼女はしきりに話しかけてくる。人なつっこいんですね。喫茶店からバアに行った。史子は彼氏がいるのにぼくにばかり話しかけてくるんです。こいつはおれに気があるのかな、って思っちゃいますよ。全く連れの男のことは気にしていないんです。もっともそのあとはその男と去っていきましたがね」  この辺までは京子が話したのと大差なかった。ハイサワーと日本酒が運ばれて来て、焼き鳥が並んだ。 「いい女でしたよ。京子と比べると月とスッポン、と言っては京子に申しわけないけど。そのときはそう思いました。彼女は名刺をくれました。どうせ相手にはされない、もう忘れているのだろう、と思いながら電話したんです。ところが会うというんです。ぼくはドキドキしましたよ。案外、ぼくみたいな男もいいんじゃないかな、なんて自信も持ちましたよ。彼女はちゃんと約束の場所に現われました。それからバアに行って、男ってほんとに浅はかですね。彼女と酒を呑んでいても、彼女とのベッドシーンばかり妄想していましてね。あまり欲望が強いとそのことが言えなくなるんですね。京子のときはわりに簡単でしたけどね。ホテルになんか誘ったら、彼女ケラケラ笑い出すんじゃないかと思ったりしてね」 「それで、どうしたんです」 「一日目は、何も言えずに別れました。その一週間後にまた会ったんです。会ってくれたと言ったほうがいいんでしょうね。その一週間、ぼくは彼女のことだけ考えていました。恋は病気と言いますね。そのときぼくは病気だったのかもしれません。ほんとは恋ではなくただ彼女を抱きたいという願望だけだったんでしょうね。ほんとにぼくは熱くなっていました。かつてぼくはこんな恋をしたことありません。二度目に会ったとき、ぼくは、きみと二人っきりになりたいな、と言いました。そのとき咽《のど》がカラカラであわててウイスキーの水割り呑んでむせたりして。男は欲望が強すぎると自意識過剰になってしまうんですね。もう頭の中がボーッとしてしまいましてね」 「すると彼女は?」 「簡単にOKしましたよ。何か肩すかしをくらったみたいにね。それからぼくは興奮しはじめたんです。彼女を抱けるのだと思うと、もう天にも昇った気持になって、心臓は苦しいくらいにドキドキです。酸素過剰なんですね。心臓が口からとび出しそう、というのはああいうときの気持ですね。あの、こういうことを喋っていいんですかね、事件とは関係ないんでしょう」 「いや、ありますよ。彼女がどういう女だったかを知りたいですからね」 「それからホテルに行ったんですか」 「行きましたよ、ラブホテルに。彼女はわりに平気でしたね。上っていたのはぼくです」 「それからどうしました?」  坂本は肩をすくめて笑った。 「こういうことは、やはり酒をのまないと喋れないことですね。きわどかったらそう言って下さい」 「いいえ、喋るだけなら、ワイセツ罪にはなりませんから」 「でも、刑事さんに喋るのは照れるな」 「われわれは、いまは刑事じゃありません。公務ではありませんから」  と内田刑事が言った。人のノロケを聞くようなものだ。  坂本はハイサワーのお代りをした。 「まるで、ぼくはだらしなかったですね。別々にバスを使いまして、ベッドインしたのですが、いざとなって立たないんです。いうことをきかないんですよ、興奮しすぎていて。いや、興奮していたのは頭だけなんです。血が頭に上りすぎていて、そこが充血して来ないんです。こんなのははじめてなんです。ぼくはうろたえました。男って興奮しすぎると駄目なんですね」  忠治は煙草に火をつけた。 「何とかしなければと焦りましたね。彼女とベッドを共にして立たないなんて、できないなんて、こんなみじめなことはありませんよ。でも、そんなぼくに彼女は優しかったですよ。キスしてね。ぼくの肺の中に息を吹き込んでくれるんです。何度か彼女の肺の空気をぼくの肺に移動させているうちに炭酸ガスが多くなって、つまり酸素過剰がなくなって来て、落ちついて来たんです。そんなにあわてないでいいのよ、と彼女はうつ伏せになったんです。そのとき浴衣を脱いで全裸でした。いきなり乳房やあそこに触るから興奮しすぎるんです。それにあんなときって不思議ですね、早く入れなければと焦るんです。するとかえってよくないんですね。彼女の背中から腰のあたりを撫でまわし、唇を這わせているうちに落ちついて来ましてね、ようやく立ち上ったんですよ。彼女はぼくのような男の経験もあったんですね。それから体を重ねましたが、アッ、という間でした。少しはセックスも自信があったんですが。京子とはこんなことはなかった。適当に自分をコントロールできたんです。史子のときにはコントロールするなんて余裕はありませんでしたよ。あっけない終り方でした。彼女がよろこんでいたかどうかなんて、そんなことはわかりません。とにかく夢中でした。何が何だかわからないうちに終っていました。男には、やはり自分にふさわしい女というのはあるものですね。もう一回挑んだんですが、結果はやはり同じでした。彼女と別れたあと、ほんとにぼくは彼女を抱いたのだろうか、という気がしました。自分が頼りなくて、夢中とはそういうことなんですね」  内田と忠治は黙っていた。まさにノロケだったのだ。聞いていて馬鹿らしくなる。 「彼女のために金を使いましたよ。それまでの貯金をみんなね。靴屋のショーウインドーの前にじっと立っているんです。靴を買ってやりました。それにワンピースとかスーツとか。買ってやるときには彼女はうれしそうな顔をするんです。そしてその日もホテルに行ってくれるのかと思っていると、用があるっていうんです。何度か肩すかしを喰《くら》いました。ごめんなさい、今日は駄目なのよ、わかるでしょう、なんていわれると、ガックリするんですね。今日は短大のころの友だちに会うの、とか、今日は他に約束があるの、とか。ぼくのほうはデートすれば抱けるものと思っている。それを拒否されると肩が落ちる。これを何度も重ねられるとほんとにまいってしまいますよ」 「どれくらい使ったんですか」 「二百万くらいですかね、もちろんそれだけ使っても損したとは思っていませんがね」 「それから、どうしました」  と忠治が言う。 「結局、彼女とホテルに行ったのは、一度だけでした。一度だけ、というのはよくありませんね。もう他には何も見えないんです。彼女だけなんですよ。電話する。彼女の声は冷たくないんです。冷めたくされれば思いきれたのでしょうがね、優しいんですよ、それでこちらは誘いたくなるんです。そしてデートすれば何かと理由をつけて逃げられる。もうぼくはたまりません。彼女をその場に押し倒してでも、と思いました。あの女は男を狂わせる女ですね。しばらく電話しないでいると、むこうから電話がかかって来たりしてね。それでいそいそと出かけていくと、またスルリと逃げられて。彼女はぼくがむきになるのが面白かったんでしょうね」 「男に恨みでもあったんですかな」  内田が言った。 「さあ、彼女は自分のことは喋りませんでしたからね。熊本の生まれであることを、チラリと聞いたことのあるくらいですからね、彼女にどんな過去があったか知らないんです」 「彼女になぶられて自殺した男がいる、と聞きましたが、何か聞いていませんか」 「聞いてはいませんし、知りませんが、何だかわかるような気がしますよ。ぼくの場合はほんのお遊びだったんでしょうが、彼女を愛してしまったという男はいたはずです。彼女を愛してしまうと、ほんとに狂わされてしまいます。狂うより仕方がなくなってくるんです。愛するということは男の場合、独占したいということでしょう。ところが彼女の後ろに男がちらちらするんです。男は自分の妻なり恋人なりが他の男に抱かれているんじゃないか、と思うと嫉妬に狂いますよ。ぼくがそうでしたから。ぼくだって彼女のこと夢にまで見ましたから、彼女が他の男のあれを手で握ってしごいてるんですから。表現がどぎついですか」 「いいえ、そんなことはありません」 「ぼくの場合は、ただ一度だけでしたから。何度かベッドを共にし、そして自分の女だと思うともっと苦しいんじゃないですかね。自分の自由になりそうでならない。それでいていつも優しいんです。気持が離れかけていても、ついまたもとにもどり、苦しむことになるんです。一度寝ただけで自分の女みたいな顔しないでよ、と怒鳴るような女がいますが、まだそんな女のほうがいいですね。すぐに諦められますから。ところが彼女は優しいんですよ」  坂本はまたハイサワーを注文した。酒は強いのか、史子のことを話すには呑まないではいられないのか。 「ぼくの前の男、会社の課長さん、今井というんですがね、ぼくたちと渋谷で会って喫茶店からバアに行き、彼女はぼくとばかり話しする。彼はキリキリしていたと思いますよ。その今井から電話があって、会ったんですよ。ぼくに史子から手を引いてくれって泣くように頼むんです。史子のために会社の金を使い込むし、家の中はガタガタだと言っていました。それでも史子のことが忘れられないんですね。あれでは地獄ですよ。その後、どうしましたかね。あるいは自殺したのかもしれませんね」 「その今井さんって方の連絡先はわかりませんか」 「たしか、あのとき名刺もらったはずなんだけど」  とポケットを探しはじめる。 「会社において来たようですね」 「では、明日にでも電話くれませんか。その今井さんという人にも会ってみたいですからね」  と内田は名刺をさし出した。     3  十時から、第一回の捜査会議が開かれた。本部長の署長も出席した。藤井主任の前に捜査員が二十数名並んだ。  藤井主任が口を開く。 「まだ、一日捜査したばかりだが、何も出て来ない。立見史子の身辺を洗ってもらい、またアドレス帳にあった人たちを調べてもらったが、アリバイのある人、ない人、さまざまだ。まだ絞りようがない。どうした、�ナカシモ�はまだ出て来ないのか。彼女のために自殺した男というのもまだわからない。できるだけ�ナカシモ�を早く探しだしたい。そしてアリバイのあるなしにかかわらず徹底的に追及してもらいたい。熊本に行っている中野刑事と塚原刑事から電話連絡は入った。だがあちらも何も出ないそうだ。�ナカシモ�もわからない」  捜査員の一人が手を上げた。 「ナカシモというのは偽名ではないのでしょうか。それとも車掌が聞き違えたということもないわけではないでしょう。知り合いの男だったら、アドレス帳にないはずはないのですから」「車掌が聞き違えたとしても、いまのところは�ナカシモ�でいくしかないだろうな。今日はみんな、アドレス帳にある人たちのアリバイを確かめてみてくれ」  捜査会議は簡単に終った。終ったところで内田刑事に電話が入った。昨日の坂本良二からだった。今井という男のことを知らせて来てくれたものである。会社名と会社の住所、電話番号などである。  内田刑事は平野忠治を誘った。坂本の話から立見史子がどういう女かはだいたいわかった。そのまま悪女とは言えないだろう。ただ男を狂わせるのが趣味の女なのだろう。 「忠治親分、昨日の酒はあまりよくなかったな」 「悪酔いしそうでしたね。でもそういう女っているものですね。現代というのは複雑怪奇ですからね。そんな女がいてもおかしくはありませんがね。内田さんはもしそんな女に出会ったらどうします」 「さあね、刑事でなかったら考えるだろうね。まあ、ぼくらには縁のない女だ。それより今井課長のことがわかった。今井に会ってみよう。また坂本と同じようなことを聞かされるかもしれんが」  今井の名前はアドレス帳にあったのだ。それは確認していた。アドレス帳にあったのは今井の自宅の電話番号だった。 「わたしが電話しましょうか」 「いや、おれがしてみる」  と言って内田刑事は、今井の会社の番号を回した。すると女の声で、 「今井さんは、会社をお辞めになりました」  と冷たく言った。使い込みがバレたのかもしれない。自宅の番号を回した。呼出し音は鳴っているが誰も出ない。 「家には誰もいないようだな。引越したのなら転居先の番号案内のテープが流れるはずだ」 「留守なんではないですか」  電話番号は神奈川県の川崎になっている。今井常夫という名前からは電話案内ではその住所までは教えてくれない。川崎まで行って電話帳を見るより方法はないだろう。 「それとも、会社に行って今井が辞めた理由を聞きますか」 「使い込みで、懲戒免職だよ。行くだけ無駄だ」  丸の内北署を出て有楽町駅に向った。有楽町から京浜東北線の電車に乗る。 「悪女というにはふさわしくないですか」 「生きているうちに会ってみたかったな。話によるといい女のようだ。分相応の女とつき合っていればいいのに」 「坂本さんのことですか」 「いや、他の男たちもだ」 「だけど、中に分相応の男もいたんじゃないですか」 「ナカシモというのは一体何だい」 「わかりませんね。アドレス帳に名前がないというのは知り合って間もない男ということになりますか」 「だが、坂本の名前はアドレス帳にはなかった。他にもアドレス帳に書き込まなかった男が何人もいたんじゃないのかな」  立見史子が働いていたブティックにも刑事が行っている。彼女が住んでいたマンションも捜索されている。そのどちらからも�ナカシモ�の名前は出て来なかった。もちろん、名刺のたぐいも調べたが�ナカシモ�はなかった。  あるいは史子のハンドバッグに�ナカシモ�の名刺が入っていたのかもしれない。ナカシモは史子に薬をのませたあと、自分の名刺だけ持っていったのかもしれない。  川崎駅で降りてから、電話ボックスに入り、今井常夫を探した。そこには住所も記入してある。それをメモして歩き出した。その方面行きのバスに乗った。バスから降りて今井家を探した。十分ほど歩いてやっとみつけた。古い住宅地だった。その一軒が今井の家だった。だが、家には誰もいなかった。近所に聞いて回る。  今井の妻は離婚し、子供を連れて長野の実家に帰っている、と隣りの主婦が言った。会社も免職になり、女房にも離婚されたのだ。でも今井はいまでも家にいるらしい。昼間はどこかで働いているのだろう。 「帰るまで待つしかないですかね」 「そういうことになるね」 「今井は史子を殺しませんかね」 「殺すかもしれないね。今井の人生はメチャメチャになった。それもみんな史子のせいだ」 「ですが夢中になったのは今井のほうでしょうからね、自業自得でしょう」 「自業自得と思えればいいがね。史子恋しさのあまり憎さ百倍ということもあるからね」  二人の刑事は狭い庭に回った。そして濡れ縁に坐った。錆《さ》びた三輪車が転がっていた。ほんの小さな庭だが、雑草が伸び放題だった。庭もだが、家も古く荒れていた。  二人とも煙草に火をつけた。どれくらい待てばいいのかわからない。夜になったらもどって来るのか。もっとも刑事たちは気が長い。何日も張り込むことだって珍らしくない。こうして待っていればいいのだから、張り込みほど神経を使わなくてすむ。  今井常夫に会うことが、内田刑事と忠治親分の今日の仕事なのだ。どこかで時間を潰《つぶ》してくるのも面倒なのだ。  今井は午後六時すぎにもどって来た。これも坂本と同じあまり目立たない中年男である。 「いずれはみえると思っていましたよ」  と警察手帳を見せられて今井は言った。もちろん立見史子が殺されたことは知っていたのだ。 「どうぞ、きたない所ですが入って下さい。こんな所で立話もできないでしょう」  今井は家の中に入り、灯《あか》りをつけた。もっときたないかと思ったが、わりに片付いていた。 「いま、工場の会計みたいなことをやっているんです。アルバイトですがね」  そう言って冷蔵庫の中から缶ビールを三本出して来て、食卓の上に置いた。今井は先にプルトップを抜いてビールをのんだ。 「ほとんど外食ですからね、お湯もわかさないんですよ。ときにはお茶くらい淹《い》れればいいんですがね」 「さっそくですが、ナカシモって聞いたことありませんか」  今井は、さあ、と首を傾げた。 「そのナカシモが史子殺しの犯人なんですか」 「そうかもしれない。立見史子が最後に言った言葉がそうでしたからね」  さすがに今井はしょぼくれていた。中年男のしょぼくれた姿というのはみっともない。今井は自嘲した。いまは自嘲しかないのかもしれない。 「今井さんは、四月二十四日はどこにおいででしたか」 「アリバイですか。史子が殺された日ですね。何曜日でしたかね」 「二十四日は火曜日です」 「だったら、いまのアルバイト先ですよ。工場に五時半までいました。行って聞いてもらえばわかりますよ。このところ休んでいませんから。わたしもずっと真面目なサラリーマンだったんです」  寝台特急『はやぶさ』は熊本を一六時三五分に発車する。そのころは今井はアルバイト先にいたことになる。裏はすぐに取れるだろう。 「立見史子を殺したいと思ったことはありますか」  今井は淋しそうに笑った。 「わたしには殺せませんよ」 「ですが、あなたの一生を駄目にした」 「駄目にしたのはわたしですよ。わたしのほうから史子に夢中になったんですからね。いずれはこうなるだろうとは思っていました。史子には罪はありませんよ。刑事さんね、この女と一度寝られれば首を刎《は》ねられてもいいって女はいるものです。史子がそんな女だったんです」 「首を刎ねられてもですか」 「史子の体に重なっているとき、そう思ったことが何度かあります」 「それほどいい女だった、ってことですか」 「わたしは生まれてはじめて恋をしました。愛したと言いたいのですが、ちょっとおこがましくてね。史子の体はきれいでしたよ。それに魅力的でね。彼女の内腿なんかゾクッとなるほどきれいでした。恋とか愛とか言うよりも愛欲と言ったほうがふさわしいでしょうね。その愛欲の果てがわたしです」 「坂本さんも同じようなことを言っていました」 「坂本さん、ああ、一度会いに行きましたよ。史子と別れてくれってね、無駄なことでしたがね。わたしは史子のためだったら、会社の金を使い込んでも平気でした。一度でも多く史子を抱ければとね。ほんの二ヵ月ほどの間でしたがね、わたしには、わたしの人生の一番輝いた二ヵ月でしたね。ですからそのあとの人生はみじめであってもいいんです。いまでも瞼を閉じれば史子の裸身が浮かんで来ます。わたしの人生は、あの二ヵ月だけでよかったんです。たとえ七十年、八十年生きて何もないよりはましでしょう。いま思えば貴重な二ヵ月でした。もちろん、いつまでもわたしの女であるわけはない、と思っていましたからね。たしかに苦しみました。史子が他の男に抱かれてるのを妄想すると狂ってしまいたいほどでした。いまでは倖せだったと思っています。あんな女を独占できるはずはないんですから。でももったいないことをしました。彼女はこれからもっといい女になるはずだったんです。それを殺してしまうなんて、わたしは史子を殺したヤツを恨みますよ」 「ずいぶん惚れ込みましたね」 「わたしにずいぶん金を使わせましたが、優しい女でした」 「立見史子のために自殺した男がいるようですが、お聞きになったことありませんか」 「たしかに自殺したくなるかもしれませんね。自殺したという男の気持がわかるような気がしますよ。でも史子を恨んでのことじゃないと思いますよ」 「奥さんはお子さんを連れて実家に帰られたとか」 「女房にも矜《ほこ》りはあったんでしょうね。でもそんなことどうってことはありませんよ。わたしは女房に許してもらおうなどとは思っていません。この齢で女に惚れるというのは甘くてつらいものです。でも、いま思えばちゃんとお釣りも来ますよ。まあ、これからのわたしは、思い出だけで生きていけますよ」  今井は笑った。妙な笑い方だった。 「人の一生なんてたかがしれていますよ。人は自分の一生の中に何を持っているのか、誇りになるようなものがありますか。わたしにはあの二ヵ月間、光り輝くものがあるんです」  二人の刑事は、今井家を出た。 「そんなものかね」  と内田刑事が呟いた。     4 �ナカシモ�は妙なところから割れた。利谷《としや》刑事が、東京二十三区から電話帳をめくって�ナカシモ�を探した。中下だったり、中霜だったり、なかなか�ナカシモ�という名前はないのだ。中志茂という名前があった。ナカシモには中志茂がぴったりする。東京二十三区が終ると東京郊外の市部に中志茂を探した。  中志茂という名前があると、それをみんなメモしておいて電話を掛けるのだ。  昭島市に中志茂|吉昭《よしあき》という男がいた。この中志茂に電話した。 「丸の内北警察署の者です。失礼ですが立見史子という女性をご存知ですか」  たいていは知らないという。だが中志茂吉昭は、 「知っていますよ」  と言った。利谷刑事のほうがびっくりした。受話器の送話の部分を手でおさえ、 「主任、ナカシモがいました」  と叫ぶように言った。藤井主任は、なにっ、と言って立って来た。 「ちょっと立見さんのことでお聞きしたいことがありますので、これからおうかがいしたいと思いますが、よろしいでしょうか」  と、できるだけていねいに言った。利谷が受話器をフックにもどす。かなり興奮していた。アドレス帳には載っていない男だった。みつかったのは偶然と言ってよかった。日本全国の電話局で中志茂を探すのは不可能だ。偶然昭島市でみつかったのだ。それでも中志茂吉昭が立見史子のことを知らないと言えばそれまでだったのだ。  どうして立見史子を知っていると言ったのか、考えてみればおかしい。知らないと言えばそれで済んだ。いや、済まないだろう。どこからか知れてくるものだ。いずれは知れる。だから知っていると言った。そう考えるべきだろう。  逆に考えると、立見史子は知っているが、殺人事件には関係ない、と言うことか。殺してはいないから、あっさりと、知っていると言えた。 「参考人として来てもらえ、失礼のないようにな」  と藤井は言った。二人の刑事があたふたと出ていく。そして藤井は、アドレス帳の人物たちを当っている刑事たちを呼び集め、中志茂吉昭の身辺の捜査を命じた。どういう人物か、どんな過去を持っているのか、立見史子との関わり方とか、そのあたりのことを調べさせるのだ。  中志茂吉昭は犯人《ホシ》かもしれない。すると事件は簡単に解決する。立見史子は死にぎわに�ナカシモ�と言った。�ナカシモ�が中志茂吉昭である可能性は強い。中志茂が史子に農薬を飲ませた。それがすべてのような気がする。  藤井主任は椅子に坐って煙草の煙をくゆらせた。事件が解決するかしないかは、藤井の成績に関わってくるのだ。これで一息つけるな、と思う。捜査本部も解散になる。簡単な事件だったのだ。  物証というのが少ない事件である。まず列車内にあった指紋と中志茂の指紋を照合する。合う指紋があれば決め手となる。事件現場からは無数の指紋が検出されているのだ。  あっさり自供するつもりなのか、そんなことはないはずだ。やはり言い逃れようとするだろう。いまのところ何の決め手もない。自供まで追い込めるかどうか、これからは中志茂との闘いになるかもしれない。自供をとり裏をとり、それから起訴に持っていく。  中志茂吉昭が着いた。それまでの時間がひどく長いものに感じられた。取調室に入れる。藤井はマジックミラーの裏の部屋に入った。中志茂を眺めるためである。 「中志茂は画家です。ペンネームを中塚四郎と言います。三十六歳、有望な画家だそうです。中塚四郎の名はアドレス帳にもありました」  と刑事の一人が言った。ナカシモがわからなかったはずだ。中志茂吉昭が本名だったのだ。もっともこのことはいずれ知れる。捜査が進めばである。  藤井主任は、内田刑事を連れて取調室に入った。中志茂はわりにがっしりした体つきの男だった。 「どうも、わざわざお呼び立てしてすみません」  と藤井は頭を下げた。 「いずれはこうなると思っていましたから」 「すると自供していただけるんですね」  中志茂は笑った。 「立見史子の死を知ったときに、警察が来るな、と思っていたということです。まさかここまで呼ばれるとは思っていませんでした」 「被害者は死にぎわに�ナカシモ�と言ったんです。だからあなたを探していました」 「彼女はぼくが恋しくて、ぼくの名を呼んだと思いますよ」  とぬけぬけと言った。 「立見史子とはどういうおつき合いでしたか」 「世間一般に言う恋人関係と言ったほうが早いんじゃないですか」 「おつき合いのきっかけは?」 「ある出版社の出版記念パーティでしたか。ぼくの友人が本を出しましたのでね。その席で誰かに紹介されました。誰だったかは忘れましたが、それからのつき合いです」 「被害者が多くの男性とつき合いがあったのをご存知でしたか」 「ええ、彼女は男好きでしたからね。彼女がどんな男とつき合おうと、ぼくには関係ありません。お互いに遊びなんですから」 「なかなか美しい女性だったそうですね。わたしは生前の彼女には会っていませんので」 「ええ、いい女でしたよ。あの手の女は独占するものではありませんよ。ある時期遊べればそれでいい女です」 「中志茂さんには執着はなかった?」 「殺された、と知ったとき、もったいないなとは思いましたがね。多情多恨、古い言葉ですがね、そんな女でした。家庭に収まるような女ではなかったんです。人にはいろいろな生き方がありますからね、彼女のような生き方があってもいいんじゃないですか」 「熊本に行かれたことは」 「ありませんね。ぼくはまだ九州には一度も行ったことがないんです。一度行ってみたいとは思っていますがね」 「四月二十四日にはどこにおられました」 「どこにって?」  と中志茂はしばらく黙った。 「そうでした。あの日は火曜日でしたね。新宿で高校の友だちと集まりましたよ。先生を呼んでね」 「何時でしたか」 「そう、八時半でしたね。五、六人ですが、ぼくたちは一年に一回、先生を呼んで酒をのむことにしているんです。あの日集まったのは、榊田《さかきだ》先生と……」  内田刑事がメモして、部屋を出て行った。 「八時半に間違いないですか」 「仲間や先生に聞いてもらえばわかりますよ。店は新宿靖国通りの『はつもみじ』という料理屋ですがね、うまい魚を食わしてくれます」  立見史子に農薬を飲ませて、新宿のその『はつもみじ』にいられるかどうかはわからない。いま、内田刑事が調べているはずだ。 「ところで、絵を描いているそうですが、絵を描いていて生活できますか」 「厳しいですね。油絵なんていまはほとんど売れないし、雑誌や新聞に挿絵を描いて何とか食っていますが、毎月給料をもらえるサラリーマンが羨ましいですね。だから、三十六歳にもなって独身なんです。サラリーマンやりながら絵を描けばよかったんですが、いきなりこの世界に入ってしまったものですから、苦労しています」 「でも、好きなことでしょうから」  そこへ、内田刑事が入って来た。そして藤井を呼んだ。 「駄目ですね、三十分足りませんよ」  と内田は言った。もちろん、もっとくわしく検討してみなければならないし、裏を取ってみなければならない。  藤井は席にもどった。 「今日のところは、ご苦労さんでした」 「帰っていいんですか」 「ええ、またおいで願うことになると思いますが、どうぞお引き取り下さい」  それではと、中志茂は立って部屋を出て行った。 「三十分足りないって、どういうことだね」 「くわしく説明しますよ」  と捜査本部の部屋に入る。 「八時半に、中志茂が新宿にいたとします。これを見て下さい」  と内田はメモを示した。 「中志茂が立見史子を殺したとすれば、飛行機で東京にもどらなければならない。とすると、熊本の次に空港に近い駅となれば博多でしか降りられないわけです」  寝台特急『はやぶさ』 博多着一八時一七分  JAL372便    福岡発一八時四〇分             羽田着二〇時一〇分 「一八時一七分に博多に着いて、福岡空港発一八時四〇分の日本航空に乗れるかどうかです。間は二十三分しかありませんからね、ちょっと無理でしょうがね、これでも羽田に着くのは八時十分です。羽田から新宿まではまず一時間かかります。九時十分すぎにしか新宿へは着けないことになります」 「アリバイ成立か」 「まず、一八時四〇分の飛行機に乗るのは無理でしょう。そのあとの航空便となれば、なおさらのことです」 「だから、あいつ、自信たっぷりだったんだな。泰然自若《たいぜんじじやく》としていた」 「もちろん、新宿での裏は取りますが」 「どうも、アリバイがあるというのが気に食わんな」  藤井主任は唇をゆがめた。簡単に解決すると思ったのは幻影《まぼろし》だったのだ。  三章 多情多恨     1  四月二十六日——。  鏑木一行は、反町悠介の葬式に出た。自宅で行われたのだが、盛大なものだった。次男坊でも八王子の有力者、反町家の葬式である。広い庭には焼香客の群れがあった。その中に山下署の刑事二人の姿もあった。  反町悠介は横浜の山下公園で二発の銃弾を背中から射ち込まれて死んだ。犯人はまだ男か女かさえわかっていない。  山下署には、『山下公園銃殺事件捜査本部』ができた。捜査主任は、宗形《むなかた》吉康警部である。的場《まとば》刑事と来須《くるす》刑事の二人が葬式に来ていた。  反町悠介は、多くの女たちと関係を持っていた。その恨みだろうと推測はつけられていた。いま、捜査本部の刑事たちは、悠介の交遊関係を洗っている。交友ではなく交遊である。悠介のアドレス帳には数十人の女の名前が連ねてあった。また、彼のスケジュール表には、四月二十四日に�M�の文字があったし、日記には�M子�と記されてあった。  M子はもちろん女だろう。だが�M�が�M子�なのかどうかはまだはっきりしない。アドレス帳には、イニシャル�M�の女、そして男の名前も多い。M子となるとまた何人もいる。だが、MとM子を洗い出すには、捜査本部としてはそれほど面倒なことではなかったのだ。  的場刑事と来須刑事が一行のそばによって来た。 「どうですか、鏑木さん」 「おれも、この事件を調査することになりましたよ。よろしく」  と一行は頭を下げた。 「一般人に、事件に首を突っ込んで欲しくはないのですがね」  と的場刑事が言った。 「邪魔はしませんよ。捜査本部の狙いとおれの考え方は違うはずですからね」 「祐一郎氏の依頼ですか」 「そっちのほうはまだですが、妹の靖子さんから調査依頼を受けました」 「仕事にありついた、ということですか」  的場が皮肉をこめて言った。 「そういうことになりますね。このところ仕事がなかったものだから」 「都合よく反町は殺されてくれたということですね」  皮肉ではなく嫌味だった。  一行は、悠介のアドレス帳に載っていた。つまり事件の関係者であるわけだ。だからアリバイも聞かれた。一行にはアリバイはなかったのだ。アリバイのあるような生活はしていなかった。 「いざとなったら情報を教えて下さいよ」  と来須が言った。いまのところ捜査本部にも一行にもたいした情報はなかった。捜査本部が発表していない情報もあるだろう。一行はざっとではあるが、悠介の日記を見た。その日記にM子とあったのを捜査本部はまだ知らない。日記は靖子が持って帰った。 「鏑木さん、何か知っているんじゃないだろうね」  と的場が一行の顔を下から覗き込む。刑事の習性だ。あまりいい気持はしない。 「まだ、捜査依頼を受けたのは昨日ですからね。そちらこそ、もう捜査にかかっているんでしょう」  腹の探り合いになる。 「情報を隠さんで下さいよ」 「わかっていますよ」  的場と来須は離れていった。  僧の読経《どきよう》の声が聞える。焼香客の群れがゆっくりと進んでいる。祭壇の前には靖子が喪服姿で坐っていた。魅力的な女である。昨日は悠介のマンションで靖子を抱いたのだ。少し後ろめたい気がする。  四年ほど、別れた亭主と夫婦でいたわけだ。セックスには馴れていた。一行のほうが興奮していた。たっぷり楽しんだつもりでも、別れたあとは忘れてしまっている。男は感覚的にすぐ忘れてしまうものらしい。靖子の肌の感触は忘れてしまっている。だから、別れたあとから、すぐまた抱きたくなるのだ。  別れた亭主は主体性がないと言っていた。どういうことか、と聞くと、セックスのときでも、ここがいいか、ここはどうだとか、体に触りながら聞くのだという。そして早く終ってしまうと、ごめんなさい、と詫びる。そんな男なのだ、それがいやで別れたのだ、と言っていた。たしかに靖子の亭主は逆玉にのったつもりでいた。だから靖子に頭が上らなかったのかもしれない。  一行は、今度、靖子をいつ抱けるのだろうと思う。今度は、しっかりと靖子の体をたのしみたい、と思う。ようやく仕事にありついた。加えて女までも、と思うのは少しぜいたくかもしれない。  もうすぐ出棺だろう。一行は反町家を出た。そして八王子駅に向う。新宿で一人の女と会う約束をしていた。藤沢真知子である。悠介の日記の後ろのページにあったアドレスから、M子をみんな手帳にひかえたのだ。五人のM子がいた。まず、藤沢真知子に連絡をとっておいたのだ。  八王子から中央線電車に乗る。頭の中には靖子とのベッドシーンがあった。何とも悩ましい光景だ。昨日からそのことばかり考えている。脳は靖子の体を記憶していた。  三時少し前に新宿に着いた。待ち合わせ場所は東口の滝沢別館という喫茶店である。もちろん顔は知らない。レジで呼び出してもらった。むこうの席にいた女が立ち上って手を上げた。プロポーションのいい女だった。まだ、二十四、五歳だろう。悠介はわりに女の趣味はよかったんだな、と思う。一行は名刺をさし出した。 「鏑木一行、格好いい名前ね」  と言った。 「いま、悠介の葬式に行って来たところです」 「まだ、若かったのに」  たしかに、人生はこれからだったのだ。  悠介とはどういうつき合いだったのか、どこで知り合ったのか、悠介をどう思っていたのか型通りの質問をする。  彼とは六本木のクラブで知り合った。そして意気投合して彼のマンションに行った。それからときどきデートした。五回ほどベッドインしたかしら、と彼女は言った。惚れたとか愛したとか言う関係ではない。そういう遊びのできる女なのだろう。一度体を許したら悠介の女だというような気持はさらさらなかったようだ。 「鏑木さんってごついわね」 「三年前まで刑事だったからね」 「お堅いの」 「辞めてから柔らかくなったよ」  言葉使いもだんだんていねいではなくなる。 「ねえ、お酒のみに行かない。四時くらいからやっているお店知ってるのよ、大衆酒場だけど、いいでしょう。二人で悠介のお通夜しましょうよ」  店を出て、歌舞伎町に入る。区役所の近くに大衆酒場があった。地下のその店に入っていく。よく来る店らしい。もっとも店の中はまだガランとしていた。六時すぎにはサラリーマンやOLたちでいっぱいになるという。  靖子に比べると、女としてはかなり落ちる。つい一行は靖子と比べてしまうのだ。肥《ふと》ってはいないが身長は一五五センチくらい。靖子は一六三センチくらいはあった。  真知子は、はじめからハイサワーをとった。一行はビールである。彼女は出版関係のプロダクションの仕事をしているのだと言った。だから時間的には余裕があるのだ。 「悠介とは高校が一緒なんだ」 「ほんと、鏑木さんのほうがずっと年上に見える。落ちついているもの」  悠介は、カメラマンという商売柄、若かった。二十七、八にしか見えなかったという。もちろん、四月二十四日のアリバイを聞いた。真知子はゲラゲラ笑いだした。 「あたしが悠介を殺して何の得するの。どうしても好きっていうんじゃなかったけど、やっぱり死んでみると淋しいわ。悠介とはわりにフィーリングが合っていたの。アリバイなんて忘れたわ。無理に思い出すのって苦痛なの」 「でも、山下署の刑事はきみのところにも来るね。そしたら、無理にでも思い出さなければならない」 「そのときはそのときよ、いまは思い出さなくていいでしょう」 「まあね、ぼくは刑事じゃないんだから」  アリバイを聞かれて、はっきり応《こた》えられるのは、十人中、一人か二人だろう。よく考え、思い出し、日記など見て言えるのが、十人中五人いればいいほうだ。人はアリバイのために生活しているわけではないのだから。 「悠介の女って知っている?」 「何人かいたんじゃない。あたし聞きもしなかったけど、あの人、すぐに女の子を好きになるのね。そして口説いちゃう。口説かれるとたいていの女はOKするんじゃないのかな。背は高いし、顔だってまんざらではないわよね。それにカメラマンだし、お金はあるし、ケチじゃないし、いまの女の子たちが求めるほとんどを持っていたんじゃないかしら。それに、女は口説いてやらないと失礼だ、と考えていたみたい。その気のある女を口説くから、たいていは成功して性交までいくんじゃない」  真知子は下手なシャレを言った。 「きみもその口なわけだ」 「失礼しちゃうわ、と言いたいところだけど、その口ね。あの人、すんなりと入っていけるところあったの。だってマンションもすぐ近くだし、誘われて何となく行っちゃって、気がついたら抱かれていたなんて。そういうところがスマートなのよね。女の子たちは何の抵抗もなかったんじゃないかしら。遊びよ、遊び上手なのよ。遊ばれても腹も立たないの。第一、遊ばれて泣いたり恨んだりする女の子には手を出さなかったと思うわ」 「おれにはできないことだな。おれはコチコチになり、その上にこだわる」 「鏑木さん、そんな感じがする。女の子とネる前にはドキドキして、っていうんでしょう」 「その通りだな。悠介はおれにないものをたくさん持っていたんだな」 「あたしで、もう百人以上の女の子とネていたんじゃないかな。何人目なんて言わない人だったけど。一緒にネているときは、キミだけって思わせてくれるのよね。それで女の子もいい気持になれるのよ。その辺、上手だった。あのマンションにはたくさんの女の子を連れ込んだんだろうけど、他の女の臭いは全くさせなかった。誠実だったのよ」 「そういうのを誠実って言うのかね」 「悠介に抱かれた女で、悠介を恨んでいるような女はいなかったんじゃないかな。欺されて肉体を奪われたなんて、そんな風に思った女はいなかったはずよ。あの人、女の見分けができたと思うの、欺されたとか、肉体を奪われたとか言いそうな女には手を出さなかった」 「でも、中には失敗もあったんじゃないかな。妊娠して困ったとか」 「あったのかな、あたしにはわからないけど、百人の女の中にはそんなのが一人や二人いたのかもしれない。だけど、それは女のほうが悪いのよ。悠介は悪くないわ」  この真知子が、悠介の日記のM子であるわけはなかった。     2  翌日、一行は反町家に電話した。靖子が電話口に出て来た。会いたい、と言うと疲れているからと言った。昨日は悠介の葬式だったのだ。疲れていて当り前だった。それに一行に抱かれる気もしなかったのだろう。 「惚れたのかな」  と受話器を置いて呟いた。何か妙に会いたいのだ。会いたいのその先には抱きたいという気持がある。抱きたいという思いが不純だとは思わない。  夕方、午後六時には、横田|百子《ももこ》と会う約束を取りつけてあった。M子の一人である。だが、それまで間がもたない。一行は時間があるとすぐにパチンコ屋に入る。いつもやっているので上達はしていた。だがパチンコは孤独な遊びである。パチンコ屋が満員だということはそれだけ孤独な男が多いということになる。もっとも最近では男ばかりとは限らない。女のパチンカーも多いのだ。  その日はパチンコも入らなかった。パチンコ屋を出て喫茶店に入る。珈琲をのみながら考える。仕事のことだ。いまは悠介を殺した犯人を探し出すことである。だが、そのことにむきになれないのだ。  何だか妙に靖子のことだけにこだわっている。悠介は二枚目だった。妹の靖子も美人であって当り前だった。けれど美人というよりもいい女という言い方がぴったりだった。  もしかしたら、おれとは別の男とつき合っているのかもしれない。あんないい女を男たちが放っておくわけはないのだ、と思うと妙に妬《や》けてくるのだ。  恋人というわけではない。ただ一度体を重ねただけなのだ。こだわるほうがどうかしている。一昨日《おととい》は、ただ何となく男の肌に触れたい気分だったのかもしれない。だから、一行を誘った。それで恋人面されたのでは靖子のほうが迷惑だろう。もともと一行は靖子を抱く資格なんかなかったのだ。それがほんの一度だけおこぼれにあずかっただけだった。  それはとにかく、調査費として靖子から五十万預かった。仕事はしなければならないのだ。  悠介を殺して得する人がいるのか。殺人事件の場合、まず動機から考える。第一に恨みである。第二には財産問題、第三には自己保全である。動機はたいていこの三つに絞られる。  はじめは、悠介に恨みを抱いている者と考えた。女たらしだから女の恨みのために殺されたと。山下署の捜査本部もその線で追っているはずだ。  恨みではないとすると、財産問題、金銭問題はどうなんだろう。たしかに反町家の財産は何十億とあるだろう。あるいは百億単位かもしれない。  悠介には兄がいる。次男なのだ。悠介の下に靖子がいる。その下にもう一人妹がいるはずだ。悠介の兄は父祐一郎のあとを継いでいる。四人兄弟だが、財産争いがあるとは思えない。悠介が人に大金を貸しているとか、借りているなんて話は聞いていない。  残りは自己保全である。悠介に生きていてもらっては困る人間がいる、と言うことだ。あるいは、撮ってはならない光景を撮ったとか。カメラマンだから、そんなことはあるかもしれない。だが、マンションにある暗室は荒されていなかった。部屋も悠介が死んだあと入ったのは、一行と靖子だけだったはずだ。  悠介は背中から二発拳銃で射たれていた。拳銃というところが気になる。あるいは麻薬に関わっていたのか、と思いたくなる。その辺は山下署で調べているだろう。  ポケット拳銃だった。いま東京にはかなりの拳銃が出まわっているという。ある筋を当れば簡単に手に入るとも言われている。以前は一行もその筋というのを知っていた。いまでもその筋をたぐっていけば、拳銃を手に入れることはできるかもしれない。  悠介殺しに拳銃が使われていたことから、犯人は男かもしれないと、刑事たちは考えている。ポケット拳銃だから女も使える、とはいいながら、拳銃での殺しとなると、やはり男のイメージだ。  一行がM子を探しているのは間違いかもしれない。たしかにM子はいるだろう。だが、事件には何の関係もない女だということはあり得る。  六時前に滝沢別館についた。横田百子はまだ来ていなかった。この喫茶店はたいてい満席だ。席の空くのを待った。どうせ時間をもて余していたのだから、もっと早く来るべきだったのだ。  横田百子に会っても無駄かもしれないと思う。刑事時代は捜査となれば、九十九パーセントは無駄をして来た。だから、無駄は少しもこわくはないのだ。  刑事のころは自分で事件を考えることはなかった。たいてい、というよりほとんど、捜査主任の言う通りに動く。主任の手足となって。考えるのは主任である。捜査員たちは手足であって、手足はものを考えない。考えてはならなかったのだ。捜査方針に異論はさしはさめなかった。自分はこう思うんですが、などと意見を出しても主任に相手にされない。だから事件を自然に考えなくなる。盗品があればその盗品だけを追う。誰かのアリバイを追うとなるとそれだけなのだ。それ以外のことに手を出してはいけないのだ。事件全体を見ることはほとんどない。  被害者のことすら忘れてしまうことがある。何のために捜査しているのかわからなくなるときもあるのだ。  だがいまは違う、一人ですべてをやらなければならないのだ。いつも事件全体を見ていなければならない。  横田百子は三十分ほど遅れてやって来た。 「ごめんなさい。出がけに刑事が来たんです。いろいろ聞かれて、それで遅くなりました」  と言った。  この女も悪くなかった。わりにプロポーションがよく、美人タイプである。美人だということではない。 「ぼくは悠介とは高校が同窓なもので、それで調査をたのまれたんです」  と説明をする。  百子は商事会社のOLだという。二十七歳になっていた。 「刑事さんに鏑木さんのこと言いましたけど、いけなかったでしょうか」 「気にしないで下さい。むこうはぼくのことは知っていますから」 「悠さんが、山下公園で殺されたとテレビで見たときにはびっくりしました。どうして殺されたんですか」 「それを調べているんです。女の恨みかと思ったんです。捨てられた女が恨んで悠介を殺した。あなただってその一人なわけでしょう」 「あたしは捨てられたわけじゃありません。あたしのほうから別れたんです」 「そうでしょうね」 「ですから、悠さんを恨んだりはしていないんです。悠さんはあたしを愛してくれたわ。短い期間だったけど、だからあたし……。あの人は誠実でした」  藤沢真知子も誠実という言葉を使った。誠実とはどういう意味なのか。悠介は次から次へと女を換えていった。一人ずつというのではなく、同じ時期に女が何人もいたようだ。それでも誠実なのか。  この百子も悠介を恨んでいる様子はない。悠介は女を捨てたわけではないのだ。女のほうから去っていった。悠介としては一番いい形であったはずだ。 「悠介には、あなたの他に女がいた。同じ時期にです。それをどう思いますか」 「そんなことはどうでもいいんです。あたしを抱いているときは、あたしだけの悠さんだったんですもの」  悠介という男は得な男だ。いろいろな女をものにしていれば、ついには刃傷沙汰《にんじようざた》を起すのが常である。彼にはそれがなかった。女たちは誠実だという。そして自分から別れたのだという。  悠介は、女をどのようにあつかっていたのか。教えてもらいたいくらいである。だが、結局は殺されたのだ。 「横田さんは、悠介がつき合っていた別の女を誰か知っていますか」 「いいえ、知りません。他の女の匂いをさせたことなど一度もありませんでした。他に女の人がたくさんいたとしたら、あたしは欺されていたのかもしれません。でも女って、うまく欺してくれるとそれで足りるんです。恨みなんかしません」 「悠介が、どうして殺された、と思いますか」 「わかりません。でも悠さんはあたしの中にいるんです」 「えっ?」 「あたしが妊娠しているとか、そんなことではないんです。あたし、この秋に結婚します。結婚すれば夫と喧嘩することもあるし、淋しくなることもあると思うんです。そんなときに悠さんは出て来てあたしを慰めてくれると思います。つまり悠さんはあたしに思い出を残してくれたんですよ。この思い出だけでもあたしは生きていけるんだと思います」 「そんなものですか」 「そんなものだと思います。何の思い出もなくて結婚するなんて淋しすぎます。悠さんはあたしにいい思い出を残してくれたんです。悪い思い出なんてないんです。オーバーに言えば、あたしの一生の宝です」  まいったな、と一行は思った。悠介はまるで神様ではないか。女に思い出だけを残してやる。年とってからでも、若いころは反町悠介という男と恋をしたのだと思い続けられるのだろうか。 「思い出のない人生なんてつまらない」  百子はこう言った。 「悠介は天才だったんだ」  百人の女たちに、みんな思い出を作ってやった。その女たちはその思い出を抱いて一生を生きていく。十年経ち、二十年経って、女たちは、あのころはよかった、恋をしていたのだと思い出し懐しむのだろうか。     3  一行は、そのあと杉山美代子、岡崎|睦子《むつこ》と会った。この二人もM子である。この二人とも横田百子と大差なかった。悠介とのことはすでに思い出にしていたのだ。  一般的に言えば、悠介は女たちをモノにしては捨て、口説いては捨て、これをくり返していたのだ。それで一つも事件にならない。むしろ悠介が思い出を作ってくれたことを感謝している。これは一体何だろう、と思ってみる。女たちに倖せだけを与えて来た。そうではない。その結果、殺されたのだから。悠介を恨んでいた女がいた。いや、男かもしれないではないか。妹か恋人か、あるいは人妻かが悠介の毒牙にかかった。毒牙という言い方はふさわしくないかもしれない。悠介に抱かれて倖せな気分になった。そのあとで捨てられた。その女は捨てられて自殺した。そう考えてみると、その兄か恋人か夫が、悠介を殺したとも考えられる。  自殺した女はいなかったのか。一行の調査はまだそこまでは行っていない。山下署ではすでにそのことを掴んでいるのか。一行は焦りを覚えた。もしかしたら、もう容疑者が浮かんでいるのではないのか。山下署に犯人を挙げられてしまうと、一行は何のために調査を引き受けたのかわからなくなる。靖子にも申しわけない。  五人目は、公文麻衣子《くもんまいこ》という女だった。M子の最後の一人である。以前から電話はしていたのだが、相手に時間がとれなかったのだ。やっと会うことができた。二十八歳、税理士だった。先輩の税理士事務所で働いている。悠介のアドレスにあったのは事務所の電話番号だった。  これが悠介好みの女だろうと思った。前の四人の女たちとはどこか違っていた。税理士だから服装も化粧も地味である。目立たない女だが、よく見ると顔形も整っているし、女らしさがあった。もちろんプロポーションもいい。それに気品みたいなものもあった。 「あたしにお話とは何でしょうか」  新宿西口のホテルのバアだった。彼女のほうが指定したのだ。 「頼まれて、反町悠介の事件を調べているんです」 「それは電話でうかがいました。横浜の刑事さんたちもおみえになり、根ほり葉ほり聞いていきました」  どこかよそよそしい。もちろん、彼女としては一行から呼び出されたことは気持のいいことではなかったはずだ。 「申しわけありません。刑事に話したことをもう一度、話していただけませんか」 「何を話せばいいんですか。悠介さんとのことですか。あたしは悠介さんを愛していました。彼もあたしを愛してくれていたと思います」  日記の中のM子はこの麻衣子だったのだと思った。日記にはM子への恋情をくどくどと書き連ねていた。これまで遊んで来た女たちとは違っていたのだろう。M子のような女を探すために、これまで多くの女たちと遊んで来たような気がする、と書いていた。 「刑事たちは何を聞いたんですか」  一行はウイスキーの水割りを手にし口をつけた。 「あたしのアリバイです」 「それをもう一度お願いします」 「あたしは、二十四日には、西鹿児島発の寝台特急『はやぶさ』に乗っていました。熊本から乗りました。あたしの姉が結婚して熊本にいるものですから。あたし、悠介さんとのことを姉に相談に行ったんです。だって、彼はずいぶん女と遊んでいるでしょう。そのことが気になったんです。悠介さんはあたしに結婚してくれ、と言いました。もちろん、あたしは少し待ってくれるように言ったんです」  悠介にプロポーズした女がいたとは聞いていなかった。だったらすぐにわかったはずである。悠介は麻衣子のことは誰にも言わなかったのだろう。一番大事にしたい女だったのだから。 「そう『はやぶさ』ですか」  もちろん、まだ『はやぶさ』に乗っていたからアリバイがあるとは言わない。彼女はハンドバッグから一枚の名刺をとり出した。 「あたしがほんとに『はやぶさ』に乗っていたのかどうかはわからないでしょう。刑事たちはそれを証明しろ、と言ったんです。それでこの人のことを思い出しました」  名刺には『高瀬康夫』とあった。彼は博多から乗って来たと言ったという。 「あたし、眠れなかったんです。熊本から航空便にすればよかったんですけど、あたしは飛行機が嫌いなんです。高瀬さんも同じようなことおっしゃっていました」 「ぼくもあまり好きじゃありませんが」 「あたし、眠れなくてロビーカーに行ってぼんやり坐っていました。そこへ高瀬さんが声をかけて来ました。広島の少し前でした。今度広島に停まるとしばらくは停まらないんですよ、と高瀬さんが言ったのを覚えています。それだけです」 「それだけですか」 「列車が広島を発車したあと、あたしはベッドにもどって寝ましたから。刑事さんには、そう申し上げました。それであたしのアリバイが成立したかどうかは知りませんが。でもよかったわ。高瀬さんから名刺もらっていてよかった。そうでないと『はやぶさ』に乗っていたかどうか証明できないところでした。もちろん刑事さんたち、高瀬さんのところへ行ったと思いますけど」  一行も、その名刺の住所と電話番号を書き取った。もちろん一度は確かめてみなければならないだろう。 「他に何かありますか」 「いいえ、けっこうです。どうもご足労かけました」  麻衣子はカウンターの椅子を降りると歩いていく。一行はその後姿を見送った。金を払ってホテルのバアを出ると書店を探した。そして大判のJR時刻表を買った。麻衣子のアリバイがほんとに成立するのかどうかを確かめたかったのだ。厚い時刻表を抱いて喫茶店に入った。 『はやぶさ』は、寝台特急のページにあった。主要駅の発着を手帳に抜き書きしてみた。  西鹿児島発 一三時一〇分  熊本着   一六時一九分    発   一六時三五分  (ロビーカー、個室寝台AとBは、熊本から連結される)  博多発   一八時一八分  広島発   二二時四三分  東京着   一〇時〇九分  広島を出れば、次の岐阜まで六時間ほどはどこにも停まらない。  麻衣子は熊本から乗ったと言っている。乗ったのだろう。乗っていなければならない。いきなり広島の前から『はやぶさ』に乗り込むわけにはいかないのだ。  寝台列車は、普通の特急列車も同じだが、客が席に乗り込んだかどうかを、車掌がチェックする。もちろん車内改札で寝台券にハサミを入れる。  麻衣子は熊本では『はやぶさ』に乗っていなければならない。この点、ポイントは反町悠介の死亡時刻である。つまり麻衣子が悠介を殺したとすれば、悠介の死亡時刻六時二十分に山下公園にいなければならないことになる。  熊本と広島がポイントになる。  もちろん悠介を殺すには『はやぶさ』から降りて山下公園に行き、広島の近くでまた『はやぶさ』に乗り込まなければならないわけだ。『はやぶさ』を降りて悠介を殺し、また『はやぶさ』に乗り込む。 「そんなことができるわけないな」  と一行は呟いた。できなければ、麻衣子のアリバイは成立することになる。すると麻衣子は悠介を殺していないことになるのだ。 『はやぶさ』から『はやぶさ』に乗る。まず新幹線を考えてみた。新幹線は博多からだ。『はやぶさ』が博多に着くのは一八時一七分だ。博多発東京行きの最終は『ひかり三四号』の一七時三七分、これでは新幹線はないことになる。すると飛行機だ。 『はやぶさ』が博多に着くのは一八時一七分。福岡空港まで駅からタクシーで十五分だという。日本航空372便、一八時四〇分がある。これが東京に着くのが二〇時一〇分。  時刻表を調べていて苦笑した。悠介の死亡時刻は六時二十分。つまり一八時二〇分なわけだ。『はやぶさ』が博多に着いたとき、すでにほぼ同時刻だ。飛行機を考えるまでもないことだ。  一行は煙草に火をつけ、そして珈琲をのんだ。こんな簡単にアリバイが成立するはずはない。うむ、と唸った。  麻衣子は、熊本駅で寝台券にハサミだけ入れてもらってそのまま降りて熊本空港に向った、と考えてみる。  東京行きの航空便は、日本エア354、一七時五五分がある。だが、五時五十五分だ。六時まで五分しかない。悠介の死亡時刻六時二十分まで二十五分ということになる。いかに飛行機でも、二十五分ではどうにもならない。  一行は時刻表を閉じた。広島の手前で『はやぶさ』にもどるのを考える以前に、麻衣子が悠介を殺すことは不可能だ。  どう考えても、熊本に一六時一九分にいた麻衣子は、六時二十分に山下公園に立ちようはないのだ。  他に考えようはないのか、と思ってみる。『はやぶさ』は二二時四三分に広島にいる。このとき麻衣子は『はやぶさ』のロビーカーにいた。これにはちゃんとした証人がいる。  熊本と広島の二点のアリバイのうち、広島での証人を除いて考えてみる。熊本では寝台券にハサミを入れなければならない。乗客表に車掌がチェックする。車掌のチェックを誰かに頼んだとしたら、つまり共犯を考えたわけだ。  麻衣子は六時二十分に山下公園に立てる時刻に早い飛行機で東京に行っているという考え方もある。例えばこの共犯者を結婚して熊本にいる姉だと考えてみる。二枚の寝台券にハサミを入れさせる。空席の麻衣子はトイレに行っている、と言ってもいい。  その姉はずっと『はやぶさ』に乗っていて、広島で乗り込んで来た麻衣子に寝台券を渡す。すると、麻衣子は広島で『はやぶさ』に乗るだけでよい。もちろん、姉が共犯としてのことだ。そうなると姉のアリバイも問題になるわけだ。  それは別に考えるとして、六時二十分に悠介を殺して、広島で『はやぶさ』に乗れるかどうかだ。  羽田から広島行きの最終が一八時三〇分、そのあとの飛行機はない。悠介が死んだのが六時二十分、広島行きの飛行機が六時三十分。その間、わずか十分しかない。山下公園から羽田空港まではどんなに早くても二十分はかかるだろう。  たとえ麻衣子の姉が共犯であったとしても麻衣子が悠介を殺すことは不可能である。人殺しの共犯となれるのは姉くらいのものだろう。もっとも共犯者はないほうがいいに決っている。  麻衣子のアリバイは完璧だった。だから堂々としていたのかもしれない。だがもと刑事の一行にしてみれば、完璧なアリバイがあるということが気に入らない。何か作られたアリバイのような気がするのだ。     4  翌日——。  一行は山下公園に足を向けた。現場百回という。捜査が行き詰れば現場に行ってみる。これが刑事の習慣でもあった。  悠介が立っていた位置には、まだチョークのあとが残っていた。その位置に立ってみる。目の前は海である。悠介はここに立って海を見ていたのか。  一行は煙草に火をつけた。悠介がどれくらい立っていたかはわからない。悠介が海に転落したのは何人かの目撃者があった。だが、悠介がいつからそこに立っていたかを見ていた者はいなかった。  一行は、あたりを見回した。どこにも灰皿らしいものは見当たらなかった。それで吸殻を足もとに落し踏みにじった。 「悠介は、ここに立って煙草は吸わなかったのだろうか」  と考えた。そのことは捜査本部の刑事たちには聞いていない。  公文麻衣子を思い出した。悠介を愛していた、と言った。悠介も愛していたはずだと。愛している男を殺すだろうか。だが、愛しているとは心の問題である。麻衣子がほんとに悠介を愛していたのかどうかは、麻衣子にだけしかわからないことだ。  ほんとに愛していたのだろうか、と思ってみる。念を押して麻衣子に、ほんとに愛していたのか、と聞いても、彼女は愛していたと言うだろう。たとえ愛していなくてもだ。悠介は麻衣子を愛していたようだ。日記にはそのように書いている。  一行は、麻衣子と靖子を頭の中で比べていた。目立つのは靖子だ。そして靖子のほうが体つきは大きい。また靖子とのベッドシーンを思い出す。靖子を抱きたいと思う。靖子の乳房に触れ腿に触れたいと思う。この間はじっくり楽しむ余裕はなかった。一行はがさつな男のように見えて、案外気は小さいのだ。靖子のような女でなければ、あんなにドキドキはしなかったろう。女を前にして勃起しなかったなんてことはかつてなかった。あのときは、どういうわけか、ひどくあわてた。自分の股間を探ってみて萎縮しているのを知ったために、よけい狼狽した。  今日も靖子に電話しようと思ったが止めた。電話する勇気がなかったのだ。そのためらいに一行は自分で驚いていた。 「鏑木さん」  と声をかけられて振りむいた。そこに山下署の的場刑事と来須刑事が立っていた。声をかけたのは来須だった。 「現場百回ですか」 「そういうことですね、そちらもですか」 「こっちへ来て坐りませんか」  と言ったのは的場だった。後のほうにベンチがあった。そこに並んで坐った。一行を中にして右に来須、左に的場である。 「何かわかりましたか」 「おれのほうは、捜査本部より一歩遅れているようですな。昨日、公文麻衣子に会いましたよ」 「それで」 「調べてみましたが、アリバイは堅いですね」 「鏑木さんもね」  と来須が言う。 「わたしも時刻表ととっ組んでみたのですがね、どうしてもアリバイは崩せませんでした」 「共犯の線は」 「それも考えてみましたよ。熊本の姉、麻美《まみ》というんですがね、共犯とすればこの女くらいしかいないでしょう。でも麻美は亭主が風邪で寝ていて二十四日は子供と幼稚園に行った以外は、外には出ていないんです。亭主まで巻き込むわけにはいかんでしょう。亭主が風邪で休んでいたと言う証人は何人もいますし、麻美は外へは出られなかったでしょうな」 「共犯説は駄目ですか」 「他に共犯になる者がいれば別ですが、たとえ共犯者がいても広島の手前から『はやぶさ』には乗れません」 「やはり、麻衣子は白ですか」 「そういうことになりますな」  来須はペラペラとよく喋る。捜査秘密は洩らさないものだが。 「もう一つ。悠介の死亡時刻が犯行時刻じゃないということです。病院の解剖医に聞いてみました。反町悠介は、あるいは十分くらいは生きていたんじゃないか、と言うことだった。つまり、拳銃で射たれた時刻と死亡時刻は一致しない。十分くらいは差があるはずだと言うんです。つまり悠介は十分間は射たれて立っていたということになりそうです」 「十分間ですか」 「それにもう一つ、捜査秘密ですが、反町は背中から二発射ち込まれたあと、コートを着ているんです。これがよくわからない。誰かに着せられたというのでもないようです。自分で着たんでしょうな」 「すると、銃弾は心臓の中心を外れていた」 「そういうことになりますな」 「すると、射たれたときに、助けを求めれば、あるいは助かったかもしれない」 「間に合ったかどうか微妙なところですね」 「悠介は、どうして助けを求めなかったんですかね」 「わたしたちにもわかりませんね」 「それに、現場検証の結果、反町はその場所で煙草を吸った可能性がある、ということだ。煙草を吸うだけの余裕があったということなのかな」  山下署の刑事がどうして、こんなに何もかも喋ってくれるのか、一行は不審に思った。刑事は自分たちの知っていることは、外部には喋らないものである。何か魂胆があるのに違いない。 「実はね、鏑木さん」  と的場が言った。 「あんたに、頼みがあるんだが」 「何だろう」 「実は、公文麻衣子が乗っていた『はやぶさ』で殺人事件があった。同じ二十四日です」  一行は初耳だった。 「殺されたのは、立見史子、ファッションデザイナー、二十八歳、死因は農薬による毒死、所轄署は、丸の内北署です。容疑者が中志茂吉昭、この中志茂のアリバイがどうしても崩れないんだそうだ。われわれも、公文麻衣子を調べていてこの事件を知ったんだが」  そこに来須が口を出した。 「反町悠介の死亡時刻が六時二十分、立見史子の死亡時刻が五時二十分、ちょうど一時間違っている。立見は熊本を出て次の停車駅大牟田で死んでいる。これには医者が立ち合っているから間違いないんだ。同じ日の五時二十分と六時二十分に、大牟田、つまり『はやぶさ』の車中で女が死に、一方では横浜の山下公園で男が死んでいる」 「それで?」 「二つの事件とも容疑者は出たが、両方ともにアリバイが崩れない。これで何か思いつくことはないかね」 「さあね、二つの殺人事件がほぼ同時に起ったということですね、偶然ですか」 「そう、偶然かもしれない。だが、偶然じゃないとしたらどうなるね」 「偶然じゃないというと、作為されたものだと言うんですか」 「何か思いつかないかね」 「何かというと、交換殺人ですか」 「そう、交換殺人だよ、的場さんとも話したんですがね。交換殺人だと、この二つの事件はすんなりいく。むこうの容疑者中志茂吉昭には反町を殺す時間はたっぷりあった。立見史子殺しにしても、公文麻衣子が犯人ならば、立見に農薬を飲ませて、あとは黙って『はやぶさ』に乗っていればよかった。反町と中志茂は何の関わりもない。また立見と公文もまた関わりがない。つまり疑われることがないわけだ」 「なるほど、それだと二つの殺人はうまくいきますね」 「立見は農薬を飲まされている。つまり女性的と言うことができる。反町は拳銃で射たれている。これは男性的だ」  ふむっ、と一行は唸った。 「すると、公文麻衣子と中志茂吉昭とは接点がなければならないわけですね」 「そこなんだよ、鏑木さん」  と的場、そこに来須が言葉を出す。 「それを鏑木さんにやってもらえないか、と思いましてね。ここで会ったのは偶然、実はあなたのアパートをお尋ねしようと思っていたんですよ」 「だったら、丸の内北署の捜査本部と合同捜査本部を作ればいいじゃないですか。あるいはむこうの了解を得て中志茂のことを調べればいいでしょう。なにもおれの出る幕じゃない」 「そうはいかないんですよ。あなたも県警にいたんだからわかるでしょう。お互いに縄張りがあるんですよ。われわれはむこうの事件には手を出せない。われわれだって丸の内北署の刑事が公文麻衣子のことを調べはじめれば、いい気はしないはずです。つまりお互いに手は出せないんです」  それを引きとって的場が言う。 「合同捜査にしても、ただわれわれの思いつきだけだからね。交換殺人というのも何の証拠もない。共通点もない。あるとすれば『はやぶさ』だけです。これでは合同捜査には持っていけんのですよ」 「つまり、おれに両方のパイプ役になれ、ということですか」 「鏑木さん自身のためでもあるんですよ。もしかしたら反町悠介を殺したのは中志茂吉昭かもしれない」 「宗形主任はこのことを知っているんですか」 「まだ主任には言っていない。いまのところは容疑者探しで手がいっぱいなんだ。むこうの捜査本部でも交換殺人に気がつくかもしれない。われわれとしては一歩先に手を打ちたいわけです。何とかお願いできませんかね」 「こっちの事件はわれわれがやる。そして鏑木さんに報告する。あなたには公文と中志茂の接点を探して欲しいんだ」 「丸の内北署には、平野忠治という刑事がいる。話は通じている。わたしの名前を出せば会ってくれるはずだ」  二人の刑事は一行を口説く。警察というところは、どうしても縄張り意識が働く。そのために捜査が遅れることもある。丸の内北署は警視庁管内であり、こちらの山下署は神奈川県警になる。ライバル意識があり、競争意識がある。  捜査協力を頼んでも、型通りの捜査しかしてくれない。事件が解決しても自分たちの手柄にはならないからだ。例えば山下署では公文麻衣子のことを知りたくて熊本署に依頼しても、依頼の件だけは調べてくれるが、それ以上のつっ込みはない。自分のところの事件ではないからだ。もちろん山下署でもそれ以上の期待はしていないのだが。 「交換殺人なんてことはないと思いますがね、お二人の頼みならやってみましょう」  一行はできるだけ恩着せがましく言った。恩は着せておいたほうがいい。のちのち役に立つことにもなるのだ。 「そうですか、それは助かります。パイプ役は鏑木さんのような人でないとね」 「交換殺人なんてことじゃないかもしれませんよ」 「それはそれでいいんです。ただ手を打っておけば、それだけで安心ですから。こちらもまだまだアリバイのない者もいるし、公文麻衣子の過去も洗ってみたいのでね。殺害動機というものは、たいてい過去に隠れているものですからね」  それではお願いしますよ、と的場刑事は一行の肩を叩いて、来須刑事と去って行った。一行は、ベンチに坐ったまま、キャスターに火をつけた。 「交換殺人か」  ないことではないだろう。それぞれに相手の殺したい者を殺す。直接には動機も人間関係もない。だから容疑者の中には入って来ない。捜査本部には影も見えないわけだ。  もちろん、的場と来須は、山下公園に中志茂の影は探したことだろう。公文麻衣子は探すまでもなく『はやぶさ』に乗っていた。  だが、一行は交換殺人のことはわきに置いておいて、悠介のことを考えた。悠介は二発背中から拳銃で射たれたあと、コートを着ている。もちろんこれは捜査秘密であったのだろう。交換殺人の調査を一行に頼むに当って二人の刑事は喋った。そうでなければ一行の耳に入って来なかったことだろう。  監察医は、悠介は射たれたあと、十分くらいは生きていたろう、と言ったという。つまり、射たれて死ぬまでの間には時間があったことになる。  その間に悠介はなぜ助けを求めなかったのか、なぜコートを着たのか。このことは大きな問題のような気がしてくる。射たれて死ぬような傷ではないと思ったのか。たしかに山下公園は小雨がときどき降っていた。雨が降って来たのでコートを着た。だが、その前に救急車を呼ぶべきではなかったのか。  小型拳銃は殺傷力は弱い。だが拳銃である。弾丸は体の中にめり込んでいる。立っていられたということは、それだけ痛みも少なかったのだろうか。  立って煙草も吸ったらしいという。悠介は煙草を吸いながら何を考えていたのか。目の前に悠介が立っていた場所が見えていた。そこに悠介を立たせてみる。 「何を考えていたんだ」  と聞いてみたくなる。そこで終るのはいかにも、もったいない人生である。背が高くて二枚目でしかも金があった。女を口説いては捨て口説いては捨てて来た。古い言葉で言えば多情多恨ということになるのか。  その多くの女たちの中で最も愛した女が公文麻衣子だった。やっと愛せる女に出会ったということなのか。その女に殺された。これも運命だったということか。麻衣子が殺したのなら、麻衣子にはそれだけの動機がなければならない。その動機は悠介が過去に多くの女とベッドを共にして来たという、そのことではないだろう。  的場、来須両刑事は、これから麻衣子の過去を洗うのだと言っていた。  四章 交換殺人     1  鏑木一行は、八王子の反町家に足を向けていた。昨日、高円寺のアパートに帰ってみると、留守番電話に靖子の声が入っていた。�父が会いたいと言っているから家へ来て下さい�という簡単なものだった。  悠介の父祐一郎が一行を呼んでいるという。悠介の事件のことだ。それ以外にはない。それ以外にあるとすれば靖子のことだ。靖子を一度抱いている。だが、そのことは問題になるわけはない。靖子だってとうに大人だ。加えて靖子は自分から一行を誘ったのだ。  反町家に行けば靖子に会えるだろう。そのことに胸がときめいた。まだ、一行の脳の中からは靖子の裸身は消えていないのだ。もしかしたら、二度と靖子の肌には触れることはないかもしれない、と思う。悠介のマンションでのことは靖子のほんの気まぐれだったのだ。彼女は軽い気持で一行に抱かれた。だが一行は軽い気持ではなかった。靖子のことが重く胸の中に拡がっていくようだ。  靖子に会いたいと思う。だが悠介の葬式以来靖子には会っていない。電話しても理由をつけて断られてしまう。いまは呼び出す理由がなかった。好きな女と会うのに理由なんかいらないはずだ。会うことそれ自体が理由であるはずなのだ。  一行は靖子に熱くなっている。だが靖子は一行に熱くなっていない。そこに温度差がある。そのためにちぐはぐになってくるのだ。  悠介と公文麻衣子の間にも温度差があったのではないのか。悠介は熱くなっていたが、麻衣子は冷たかった。熱くなっている男のほうはたまらない。いま一行は焦《じ》れていた。焦れてはいるが靖子がその気にならなければどうにもならないのだ。もどかしい。靖子に一行と同じように熱くなってくれと言っても無理だろう。  第一立場が全く違うのだ。一行はもと刑事のごろつきみたいな男だ。私立探偵だと言っても無職と同じである。相手にされないのは当り前かもしれない。もちろん諦めるしかない。だが諦めるのには苦痛がともなうのだ。愛しているなどと言う資格はない。  反町家の玄関に立った。この家の中年のお手伝いが出て来て、玄関わきの応接室に通された。明るい応接室だった。窓が大きく取ってある。ガラス戸のむこうは庭である。布張りの応接五点セットがある。新しいものだった。それに色彩が明るい。何年に一度かは換えられるのだろう。  ドアが開いて靖子が入って来た。一行はドキンとなった。彼女は笑いながらテーブルの上に紅茶を置いた。 「靖子さんを抱きたい」  と言った。彼女は声をあげて笑った。 「ずいぶんストレートね」 「ぼくはこうしか言えませんのでね」  靖子はしばらく黙った。そして、 「いいわ、午後七時に兄のマンションで」  と言って応接室を出て行った。靖子がOKした。とたんに体がカーッと熱くなった。そこに祐一郎が入って来た。一行はあわてて立ち上がった。 「どうぞ、ゆっくりして下さい」  と祐一郎は言った。 「事件はどうなっています」  と言った。ただ事件と言った。 「いや、靖子から聞いています。靖子の依頼で動いて下さっていると。先日、あなたがおいでになったときには失礼しました。あのときはわたしも動転していましたのでね」 「昨日も、横浜まで行ってみました。山下公園に行ったら、刑事二人も来ていましてね。現場ですから、捜査に行き詰ったら現場百回と言いまして、刑事は現場に行くものです」 「それで」 「一応、容疑者は出ていますが、アリバイが崩れません。刑事が言うには、交換殺人ではないかと言うんです」 「交換殺人?」 「悠介くんが亡くなった二十四日に、その容疑者は西鹿児島発寝台特急『はやぶさ』に乗っていたというアリバイがありました。ところが同じ『はやぶさ』でもう一つの殺人事件が起きていたんです。そっちのほうの容疑者にもアリバイがあるそうなんです。犯人が入れ換っていたら犯行は簡単だと言うんですけどね」 「鏑木さんはどう考えているんですか」 「まだ何とも言えません。まだむこうの事件は当っていないものですから」 「そうですか。実は今日おいで願ったのは、悠介の事件をわたしからお願いしたいと思いましてね」 「でも、靖子さんが」 「そちらのほうはなかったことにして下さい。わたしの調査依頼ということで」 「そうですか、ぼくのほうはそれでけっこうです」 「犯人が捕まるかどうかはどうでもいいんです。ただ悠介のために何かをしてやりたいと思いましてね」  祐一郎は茶封筒をテーブルの上に置いた。 「ここに百万あります。これで足りなければ言って下さい。鏑木さんは悠介の友だちでもあったことだし、適任だと思っています」 「あずからせていただきます」  と言って封筒を内ポケットに入れた。  一行が反町家を出るまで、靖子はついに姿を見せなかった。だが今夜七時に会うことになっている。今夜はたっぷりと靖子を楽しむことができるのだ。そう思うだけで舞い上ってしまいそうだ。  女を楽しむとはどういうことなのか。ただ女の体に重なって放出するだけが能ではないだろう。だったらどうする? 女にはまだ経験不足だった。悠介のように多くの女を楽しんだわけではない。女のあつかい方もよく知らないのだ。少し前までは女と重なって放出するだけがセックスだと思っていた。一行ももう三十二歳である。二十代の男とは違うのだ。女に笑われないくらいは知っておきたかった。  八王子駅から中央線電車に乗った。丸の内北署は一直線である。東京駅から歩いていける。  今夜、靖子を抱ける、そう思うだけで倖せだった。靖子の股間の光景はどんなものだったかは記憶にない。手ざわりはなめらかだった。そこには毛はなかったように思う。なにせ夢中だったのだ。  いかんな。仕事のことを考えなければならんなと思う。まだむこうの事件はどのような経過をたどっているのかわからない。『はやぶさ』が熊本駅を発車してから一五分ほど経ったころ立見史子という女が苦しみながら個室寝台から転げ出して来た。『はやぶさ』の発車は熊本が一六時三五分。立見が農薬を飲んだのは一六時五十分ころということになる。そして一七時二十分に死んでいる。  立見は死にぎわに�ナカシモ�と言った。これがダイイングメッセージになった。そして中志茂吉昭という男がいた。立見史子の恋人だったようだ。  反町悠介と公文麻衣子の関係と似ている。立場が逆ではあるが。山下公園では反町悠介が殺され、『はやぶさ』の中では立見史子が殺されている。容疑者は反町悠介の恋人公文麻衣子、立見史子の恋人中志茂吉昭。どこか妙である。  これが交換殺人となると、中志茂が反町を殺し、麻衣子が史子を殺したということになる。中志茂と反町は全くの他人である。麻衣子と史子も顔も合わせたことのない他人。  たしかに事件を別々に見れば、史子殺しの容疑者としては麻衣子は上って来ない。また反町殺しの容疑者に中志茂はなれない。するとこの二つの事件は迷宮入りになってしまう。  現実に交換殺人なんてことがあるのか。小説の世界だけではないのかと思っていた。二つの事件を重ね合わせてみて、交換殺人の可能性が出て来たのだ。もしそうだとすれば、うまい殺し方である。  交換殺人だとすると公文麻衣子と中志茂吉昭は知り合いでなければならない。それをどう証明するかにかかっていることになる。もちろん、二人は知り合いであることを隠そうとするだろう。ここ何ヵ月かは会うまい、と約束しているかもしれないのだ。  東京駅で降りて歩いた。有楽町駅からのほうが近そうだった。丸の内北署には『はやぶさ』殺人事件捜査本部ができていた。受付で平野忠治刑事に会いたいと告げた。しばらくして三十歳くらいの私服の刑事が出て来た。 「平野刑事はいま出ていますが、あなたは?」 「三年前に神奈川県警にいた鏑木一行ですが」 「何か用ですか」 「用があるから訪ねて来たんじゃないですか」 「ですから、その用というのは」 「山下公園殺人事件のことで、平野さんと話したいんですよ。こちらの『はやぶさ』事件と関連しましてね」 「平野刑事はすぐにはもどらんと思いますがね、電話しておいでになればよかったんですよ」 「待たしてもらっていいですか」 「そうですね、だったら、こちらへどうぞ」  と捜査本部に案内してくれた。部屋はガランとしていた。むこうの椅子に男が一人坐っていた。一行と応待した刑事がその男に何か話している。その男が立って来た。 「わたしは捜査主任の藤井と言いますが」  一行は名刺をさし出した。 「鏑木さんですか、三年前まで神奈川県警におられたとか」 「平野刑事にこちらの事件を聞きたいと思いましてね」 「誰の依頼ですか」 「山下公園の被害者反町悠介の父親です。それに山下署の的場刑事と来須刑事です。山下公園の殺しと『はやぶさ』の殺しは、交換殺人じゃないかと」 「交換殺人? それは何ですか」  と藤井は大声を出した。 「失礼しました」  と藤井は頭を下げた。交換殺人のことははじめて耳にしたのだ。藤井はもちろん山下公園の事件は知っていたが、たいして気にはしていなかったのだ。 「そんな馬鹿なことが。ちょっと待って下さいよ」  と言って藤井はむこうへ行き、電話をかけた。山下署に問い合わせているのだ。電話をすましてもどって来た。 「どうぞ坐って下さい」  と椅子をすすめ、藤井も坐った。そして煙草に火をつけると、むこうにあったアルミの灰皿を引き寄せた。一行はキャスターを咥《くわ》えた。藤井がライターの火をさし出した。 「言い出したのは誰ですか」 「来須刑事のようでしたね。こちらの平野刑事とは知り合いらしくて」 「いや、おどろきました。交換殺人なんて。考えてもみないことでした。第一、山下署の事件なんて気にもかけていませんでしたからね」  もっとも、こちらの事件からは山下署の事件はわかりにくかったろう。『はやぶさ』の中で立見史子が殺されたというだけだ。だが山下署のほうでは、容疑者を洗っているうちに公文麻衣子が出てきた。そして彼女のアリバイが『はやぶさ』にあったのだから『はやぶさ』の立見史子殺しはすぐにも耳に入ってくるわけだ。 「それで鏑木さん、あなたのお考えは」 「まだ、こちらの事件のことはよく聞いていないものですから。容疑者の中志茂のアリバイは崩れないとか、知っているのはそれくらいのものです。両方のアリバイが崩れないのなら交換殺人もあるかもしれませんね」  藤井主任は、ふむっ、と唸った。捜査方針を決めるのは主任である。交換殺人となると山下署と丸の内北署の合同捜査ということになる。 「だけど、すべて推測でしょう」 「そうです、推測です。何の証拠もないんです。ただ二つの事件をくっつけてみただけです」  警察は推測では動けない。捜査主任もその交換殺人説を採り上げるかどうかは自分の責任にかかってくる。容疑者を別の形で調べ直さなければならなくなる。 「ぼくが交換殺人を言い出したわけではないんですよ。ぼくはただ反町悠介殺しを調査しているだけですから」 「しかし無視はできないな。中志茂のアリバイは、いまのところ動かないようだし、別に容疑者が出てくれば別だが、交換殺人ね、そんなことがあるのかね」  と藤井はしきりに気にしている。 「利谷《としや》刑事、鏑木さんに『はやぶさ』事件のことを話してやってくれたまえ。そして鏑木さん、何かあったらこちらにも連絡下さいよ」  と念を押した。一行は頭を下げた。利谷刑事というのは、はじめに応待した刑事だった。  利谷刑事は、 「ちょっと外に出ませんか」  と言った。一緒に北署を出て、しばらく歩いたところにある喫茶店に入った。 「ぼくは珈琲が好きでしてね」  と言った。珈琲がのみたいために一行を誘ったのだ。暇さえあれば珈琲をのんでいるのだという。利谷刑事は二十八歳だと言った。 「殺された立見史子という女は男好きでしてね、男をとっかえ引っかえ、よく遊んでいたようです。それだけに美人だったようです。身長もあってプロポーションもいい。ファッションデザイナーということですが、ブティックで働いていただけ、ただの女店員ではなかったというだけでしょう。もっともぼくは彼女の生きている姿は知りませんが、アドレス帳にあった男たちの証言では、いい女だったそうです。男たちを夢中にさせるだけの容姿だったようです。史子を抱けたら、重なっているところを首を刎《は》ねられてもいいと言った男もいたそうです。そんなにいい女だったということでしょうがね」  どこか反町悠介に似ていた。 「男はいろんな女をあさりますよね。それが男の本能なんでしょうがね。それに反して女は一人の男がいればいいと言います。男は一年間に百人の子供だって生ませることができるが女は一年間に一人しか生めないんですな。男と女の摂理なんでしょうね。ところが立見史子はその摂理に反した生き方をしていたということになりますね。彼女のアドレス帳には五十人ほどの男の名前がありました。その男たちとたいていはベッドを共にしているんですね。驚きましたよ。男なら五十人の女とネた、と言ってもたいして驚くことではありませんがね。それに監察医が言ってました。それでも女の部分はきれいなものだったと。肌の色が白かったから、メラニンが少なかったんでしょうね。メラニンが多いとすぐにどどめ色になってしまうと言いますからね。いや、そういうことは関係ありませんでしたね」 「いいえ、そういう話がいいんですよ。思わぬところに思わぬ発見があるものです」 「彼女は熊本の生まれなんです。両親は熊本に健在です。九州の女は肉が堅いと言いますがね。肌は浅黒くてメラニンが多い。そして肉は労働力としての筋肉なんです。いやそのように聞いたことがありますよ。立見史子は例外的な女だったんですかね。両親が熊本の人じゃなかったのかもしれない。もっとも九州でも博多女は別だと言っています。色が白くて肉が柔らかいのは京都、秋田、そして博多女、これが日本の三大美人です。また話がはずれてしまいました。でも、立見はいろいろ聞いてみると博多美人の流れのようです」 「博多美人ですか」 「いまでは博多、福岡にも博多女の流れはないようです」 「なかなかくわしいですね。おれもそういう話は嫌いではないですよ」 「それで、容疑者の中志茂吉昭。画家でしてね、画名を中塚四郎。食えない画家ですがなかなかいい男です。身長も一八○センチはあるんじゃないかな。顔も彫《ほ》りが深く、髭《ひげ》の濃い男です。立見史子とはお似合いなんじゃないかな」 「お似合いのようですね」 「四月二十四日、中志茂は新宿の料理屋で高校のときの仲間五人、それに恩師を一人まねいて酒をのんでいるんです。たしかに連中は年に一回か二回、このような集りをやっているようです。中志茂は八時半にこの店に現われているんです。この八時半を覚えておいて下さい」 「八時半ですね」 「立見史子が、毒をのんで『はやぶさ』の中で苦しみはじめたのが十六時五十分です。ここから新宿の料理屋に向うんです。次に空港のある駅は博多です。福岡空港から一八時四〇分の東京行があります。博多に『はやぶさ』が着くのが一八時一七分。一八時四〇分離陸の飛行機に乗れるかどうかわかりませんが、乗れたとして羽田に着くのが二〇時一〇分、つまり八時十分ですね。新宿の八時半までには二十分しかない。これでは無理です。羽田からモノレールに乗っても新宿には一時間以上かかりますからね。中志茂のアリバイは簡単に成立したんです」  一行は時刻を手帳にメモした。 「八時半に新宿の料理屋にいたという証人は何人もいます。これは動かせないんですよ」 「アリバイがはっきりしているというのは気に入りませんね」 「そういう捜査員も何人もいました。しかし事実は事実ですからね」 「そうすると五十分足りないわけですね」 「そう、五十分早く着く便があるといいんですがね」 「そういう便はあっても『はやぶさ』はまだ博多に着いていないわけですから、どうにもなりませんよ。アリバイがあっては容疑者から外すよりないですね」 「中志茂は白ですか」 「白ですね。鏑木さんがおっしゃる交換殺人となれば別ですね。その反町悠介の死亡時間が」 「六時二十分」 「新宿が八時三十分とすると二時間十分あります。電車で来ても、電車で来るしかないのでしょうが、時間はたっぷりあります」 「利谷さんも、交換殺人にしたいわけですか」 「物理的に可能というだけでしょう」 「ほんとに殺したいヤツを殺すときは、自分の手で殺したいんじゃないですかね」 「でも、それでは捕まってしまう。捕まらないためには、殺しを交換しても仕方ないんじゃないですか」 「どうして同じ四月二十四日に交換殺人をやったんですかね。交換殺人をやるんだったら別々の日のほうがいいように思えますがね」 「立見史子は、熊本に行き四月二十四日に上京する予定だった。列車の中で殺そうと思えばチャンスだった。山下公園の反町はこの日ではなくてもよかったんじゃないですか」 「その通りですね。同じ日に犯行を実行すれば、交換殺人がバレやすい。なぜ同じ日に実行したんですかね」 「立見史子が殺されれば、まず中志茂が容疑者として浮かび上ってくる。そのことは中志茂も知っていた。だから仲間との呑み会をアリバイとした。つまり、二十四日の『はやぶさ』で立見史子が殺されることを中志茂は知っていた、ということになりますか」 「呑み会は偶然だったんでしょう」 「ほんとに偶然だったんですかね、中志茂がセッティングしたとすればどうです。ちょっと待って下さい。捜査本部もそこまでは考えていなかったようです」  利谷刑事は、珈琲のお代りをした。 「呑み会を中志茂がセッティングしたとすれば中志茂はアリバイを工作したということになりますね。これは捜査会議にかけないといけないな」 「しかし、利谷さん、交換殺人だったら、アリバイの工作は何の意味もなくなりますよ。反町悠介を殺しても八時半までにはゆっくりもどれるんですから」 「すると、交換殺人ではないということですか。妙にややこしくなりましたね。交換殺人だったら、別のアリバイ工作をしなければならなかった、ということですよね」 「その通りです」  とにかく、一行も中志茂吉昭に会ってみなければならないなと思った。     2  一行は青山のマンション、悠介の部屋の前に立った。七時に五分前である。腕時計を見た。ブザーを押した。だが反応はない。まだ来ていないのだろう、と思った。  ドアの前にぼんやりと立っている。靖子を抱けるということで胸は躍っていた。あまり興奮するとこの間のようなことになる。自制した。たかが女のことではないか。男と女がすることはたいした違いはない。肌に触れて愛撫してペニスを入れる。それだけのはずだ。胸をときめかすほどのことではない。  再び時計を見ると、七時を五分過ぎていた。 「遅いな」  と呟いた。まあ三十分くらいは待たされても仕方ないか、と呟いてみる。三十分男を待たせても許される女だ。自信のある女は男を待たせるものだ。十分待たせて許される女、二十分待たせて許される女、三十分待たせて許される女、女によってもランクの付け方がある。 「惚れているのはおれのほうだ。三十分くらい待ってやって当然だろう」  と思いながら、事件のことを考える余裕まではなかった。もし靖子が現れなかったらどうなる。そんなことはないはずだ。靖子は必ず来る。自分で七時にこのマンションで、と言ったのだ。  時計を見ると七時三十分になっていた。何かの用で遅れているのだ。電話連絡するにもできない。一行は部屋の中には入れないのだから。家族でもないのに、まさか管理人に頼んで中に入れてもらうわけにはいかないだろう。  これだったら、この近くの喫茶店ででも待ち合わせるんだった。靖子に何か急用ができたのなら電話して来るだろうから。  七時にこのマンションで会うと言ったあと、靖子には急用ができた。そして急用のほうを優先した。その急用とは一体何なのか。一行との約束を破るだけの重要な急用だったのか。  時計は八時を過ぎていた。一時間待ったことになる。もう靖子は来る気はないのだ。だがドアの前から離れられない。 「女を待つのもけっこう苦しいものだな」  と呟いて苦笑した。膨らんでいた胸がしぼんでいく。今夜は靖子を抱けるつもりだったのに。それが抱けなくなった。この気持のやり場がない。  靖子の急用というのは男に会う用だったのではないのか。靖子は二十八歳、結婚経験がある。美人でもある。他に男がいても当り前だろう。男のほうで放ってはおかない。もしかしたら再婚の相手かもしれない。いや、遊びの男だ。その男は靖子にとって一行よりも重要な男だったのだろう。  その男から電話があって一行との約束をすっぽかした。一時間半待った。もう来るわけはない。八時半である。一行はやっと諦めて歩き出した。  連絡を取る方法がなかったわけではない。管理人に電話して、ドアの前に立っている男がいるから今夜は行けない、と伝えるよう頼むこともできたはずだ。  マンションを出るとがっくり疲れた。いまの気持の始末をどうつけたらいいのか。靖子を抱けるつもりでいたのに抱けなかった。この気持の持っていき場がない。  いかんな、と思いながら渋谷駅まで歩き電車に乗った。新宿で乗り換える。そして高円寺で降りた。駅前の呑み屋に入った。やけ酒である。日本酒を頼む。カウンターに坐って呑みはじめる。 「おれは彼女の何なのだ」  と呟いてみる。一行は靖子の何でもない。ただ一度体を重ねただけの仲だ。恋人だってわけでもないのだ。女にこんな振られ方をしたのははじめてだった。情けなかった。みじめだった。男にこんな思いをさせて、あの女は一体どう思っているのだ。  いまごろ靖子は、男に抱かれているのかもしれないと考えはじめる。するとよけい苦しくなるのだ。男の手が靖子の乳房を揉んでいる。靖子は声をあげてのけ反る。乳首が紅くしこっている。 「ちくしょう」  と呟いた。  靖子の手が男のペニスを握っている。そしてペニスをしごいている。あげくの果てにはペニスを口に咥《くわ》える。  一行は頭を振り、そして大きく溜息を吐く。こういう妄想はきりがない。酒は呑まないほうがよかったのだ。アパートに帰っておとなしく寝ればよかった。だが、おとなしく寝るなんてことはできなかった。 「こういうすっぽかされ方をしたら、殺意が湧いてくるのではないのか。こういうことを何度かくり返されると……。『はやぶさ』の中で殺された立見史子という女は、そういう女ではなかったのか」  靖子と史子を重ね合わせてみる。どこか体型が似ているような気がするのだ。史子はこのようにして男たちの恨みを買う。度重なれば殺意だって湧く。史子が他の男と一緒に歩いているのを見たりすればなおさらのことだ。  悠介だって同じことだ。一人の女と会う約束をしていて別の女とデートするみたいなことは何度もあったに違いない。あるいはあのマンションで女と女が鉢合わせしたことがないとは言えないのだ。そのために二人は殺された。 「まさか、そんなことで」  だが、殺意というのはどこから生まれてくるかわからない。  一行が県警にいたころ、老いた刑事が話してくれた。昭和初期の事件である。ある大工が、女房が男に抱かれている夢を見た。目をさました大工は、そばに寝ている女房を刺し殺してしまった、という事件である。その女房は貞淑な女だったし、大工も夢であったことはわかっていた。たとえ夢の中でも女房が不貞を働いたのが許せなかった。いや、そういう理性的な判断ではなかった。ただ、カッとなって殺したのだ。  男も女もだが、嫉妬というのは始末に悪い。殺意にまで発展することがある。嫉妬とか独占欲とかの言葉では言い表せないものがあるのだ。  一行がいま、やりきれない気持でいるのは単に靖子が約束を破って現われなかったというだけではない。それだけだったら、何か急用ができたのだろうくらいで済ませられる。  問題はそのあとなのだ。靖子が一行との約束を破って、他の男とデートしているという妄想なのだ。その男とベッドに入って抱き合っている。その光景が具体的に浮かんでくるのだ。前の大工の夢と同じなのだ。どうしようもない腹立たしさがある。  男のペニスが女のワギナに入っていく。その光景さえ見えるような気がする。靖子がそれに反応して歓《よろこ》び悶える。大工は夢で妻が悶える光景を見たのに違いない。  嫉妬に狂うとは、精神的なことではない。肉体的なことである。女は自分の恋人や亭主のペニスが他の女のワギナに入っていく妄想に狂ってしまう。男もまた同じだろう。  いまになって一行は、妻を殺した大工の気持がわかるような気がした。妻は何のことだかわからずに殺されたのである。  老刑事からその話を聞いたときには、なんて馬鹿な大工だろう、と思った程度だった。ありもしない浮気の幻影に苦しめられる。それが人間というものなのかもしれない。もちろんその気持は、大工の立場になってみなければわからないことだ。人は誰もその大工を馬鹿だという資格はないのだ。  一行は酔った頭で考える。走り出し、わめき散らしたい。 「おめえの女、いい女だな、一発やらせろよ。減るもんじゃあるめえし」  隣りで若い男が二人呑んでいた。様子からしてこのあたりのチンピラだ。 「な、いいだろう。おれ、あの女と一度やってみてえんだよ」  チンピラと言っても、二十五、六、いい大人だ。 「おめえ一人で独占することはねえだろう。いい女というのはな、多くの男をたのしませるために生きているんだ。おめえが一人占めにしちゃいけねえんだよ。あの女に聞いてみろ、おれとやりたいと言うかもしれねえじゃないか。おめえよりおれのほうがよかったりして、イヒヒヒ」  もう一人の男は黙って酒を呑んでいた。 「これからおめえのアパートに行こう。もう帰って来ているだろう。おれはいま、やりたくてしょうがないんだ。そうだ、二万円出そう。それが相場だ。それなら文句ねえだろう」  一行はたまらなくなった。 「おい、アンちゃん」  と男の肩を叩いた。 「何でえ、おじさん」  と振りむいて言った。 「人の女に手を出すな」 「何だって、いいじゃねえか、あんたは関係ねえだろう。てめえ、いちゃもんつける気か、面白《おもしれ》え、やろうってのかい、表へ出ろ」  チンピラの反応は早かった。 「おい、おじさん、表へ出ろよ」  とチンピラは一行の襟元を掴んだ。この男は仲間の女を抱きたかったのだ。それを一行に水を掛けられた。それでカーッとなったのだ。 「わかったよ。その前に呑み代だけは払っておかないとな」  一行は呑み代を払った。男の腕を払いのけた。こんな男を叩きのめすのはわけなかった。  店を出た。男はいきなり殴りかかってきた。暴力団員の喧嘩のやり方だ。相手がその気になっていないところに襲いかかってくる。一行にはそれがわかっていた。拳に空を切らせておいて、向う脛《ずね》を蹴りあげた。 「ギャッ!」  と叫んで、膝を抱いて転げる。そいつの襟を掴んで背負い投げをかける。受け身なんて知っているわけはない。地面に叩きつけられて、またギャッと声をあげた。背中から腰を打ったらしい。悶える男の襟を掴んで引き起こすと、顔に正拳を叩き込んだ。男の顔がゆがんで、鼻血を出した。同じ場所を二度三度と殴る。  酔ってはいても格闘技は体にしみついている。襟を掴んでもう一度引き起こす。 「アンちゃん、何か言ってみろよ」 「お、おみそれしやした」  チンピラは弱い者には強いが、強い者には弱い。全くの無抵抗なのだ。 「それだけかい」  ほんとに、この男をぶっ殺してしまいたい気分だった。男を突き放しておいて歩き出した。男を殴ってみても少しも気分は直らないのだ。  あとはアパートに帰るしかなかった。みじめでどうしようもない。部屋に入った。留守番電話のスイッチを押してみる。靖子の声が流れて来た。 「ごめんなさい。急用ができて行けないの」  ただそれだけだった。 「ちくしょう、その急用というのが問題なんだ」  とわめいた。     3  翌朝、目をさました一行はさわやかな気分ではなかった。頭の中はまだ昨夜の続きである。頭の中では、まだ靖子が男ともつれ合っていた。靖子のことなんか忘れっちまえ、と思うが、それができれば苦労はない。  アパートを出ると床屋に行った。少しは気分が変るかと思った。気分は変らないがいくらかさっぱりした。  そして足を昭島市に向けた。中志茂吉昭に会うためである。とりあえずは仕事である。仕事をしていれば、気分はまぎれる。  一行があれだけ苦悩したのに、靖子は何も感じていないのに違いない。急用ができたから約束を破った。ただそれだけだろう。もちろん、男とデートしたとは限らない。ただ一行の妄想だけなのだ。男とデートし、その男に抱かれたとしてもだ、一行に悪いなどとは考えもしない。  第三者に言わせれば、恋人でもない靖子が他の男に抱かれたって、一行にはとやかく言う権利はない、ということになりそうだ。  中志茂は自宅にいた。絵描きだから絵を描いていたのだ。背の高い男で彫りの深い顔をしていた。  一行は名刺を出して、 「立見史子さんのことでお話をお聞きしたいのですが」 「またですか。警察でさんざん絞られましたよ」  と中志茂はいやな顔をした。 「あなたは、一体何ですか」 「ぼくは、山下公園で殺された反町悠介の事件を調査しているんですが」  一行は中志茂の顔を見た。彼は困惑の顔になった。 「何ですか、その山下公園の事件というのは」 「山下署では交換殺人と言っているんですよ。あなたが反町悠介を殺したんじゃないかって」 「その山下公園の事件というのは、よく知らないんですが」 「あなたのアリバイが完璧なのでね。そう考えた刑事がいるんですよ。同じ日に、しかも一時間の差で殺人事件が二つ起きているんです。アリバイの壁にぶち当ると、捜査本部というところは、いろいろ考えるものでしてね」  中志茂の態度が変った。山下署の事件に興味を持ったようだ。 「まあ、上りませんか、ちらかしていますけど」  と言った。上ったところは板の間の広い部屋だった。仕事場であり生活の場でもあるのだ。隅にベッドがあり、古い応接三点セットがあった。そこに坐る。中志茂はむこうで珈琲を淹《い》れているようだった。その間一行は部屋の中を見回していた。殺風景な部屋で油の臭いがしている。  むこうに机があり、その上には画道具が乗っていた。イーゼルには描きかけのカンバスがあった。何の絵を描いているのかわからない。  中志茂は珈琲を二つ淹れて来た。 「ぼくは、こうして珈琲をのむのが好きでしてね、一日、五、六杯はのみます」 「ほとんど家からは出ないんですか」 「たまには出かけますけどね」  悠介とは違ったタイプの二枚目だった。これだったら女にもてるだろうな、と思う。靖子を彼のそばに立たせてみる。似合いのカップルになりそうだ。殺された立見史子は靖子と似たようなタイプだったのだろう。 「その山下公園の事件ですが」  と彼はさいそくした。  一行は、悠介が殺されたいきさつをゆっくりと喋った。容疑者として上ったのが公文麻衣子、そのアリバイが崩せないことも喋った。 「反町悠介は、ぼくの高校時代の友人でしてね。そういう関係で悠介の父親から調査を頼まれました」 「事件の捜査は警察がやるんでしょう。一般人は事件には関われないと聞いていますが」 「それはたてまえだけですよ。それに、ぼくたちは、警察とは違う角度から事件を調査しますのでね。捜査本部の捜査には限界があるんですよ」 「それで、鏑木さんも、交換殺人だと思っているわけですか」 「交換殺人の証拠は何もないんです。ただの推測ですよ。交換殺人だったら犯行が可能というだけです」 「第一、ぼくは公文麻衣子という女は知りませんよ」 「知らないということにしなければならないですからね。少なくとも何ヵ月かは会わない。お互いに知らないふりをしようと約束した、とまあ捜査本部は考えるわけですね」 「警察というのは、おかしなことを考えるものですね」 「苦しまぎれですよ。時間的に中志茂さんは立見史子を殺せない、つまりアリバイですよね。そのアリバイが刑事たちは崩せない。あなたは八時半に新宿の料理屋におられた」 「『はつもみじ』です。魚がわりにうまいので、ときどき行っています。最近は雑誌や新聞のカットや挿絵の仕事がありまして、それでどうにか食えているんですが、その『はつもみじ』には編集者たちとよく行くんです。酒代はむこうで出してくれるもので」 「念のため、友だちと先生の連絡先を教えてくれませんか。ぼくも調査費をもらって調査しているものですから」  二十四日に集まった仲間のことをメモした。 「立見史子さんとは、お知り合いだった?」 「ええ、つき合っていました。男と女ですから」 「史子さんは、発展家と聞いていますが」 「そのようですね。次々に男を換えて。でもぼくは女の過去なんてどうでもいいんです。いま史子を抱いている。抱かれている史子だけで充分ですよ。ぼくとつき合っている間にも別の男がいたようですが、そんなのはどうだっていいでしょう。気にもなりませんよ。会っているときだけぼくの女であれば」 「中志茂さんはエライんですね。いや、立派と言うべきか」 「何のことですか」 「自分の恋人が、他の男とデートしても気にならない。その男に彼女が抱かれても?」  それは、と言って彼は笑った。 「それは、自分の女、と思うからじゃないですか、独占欲ですよ。女は一緒にいるときだけぼくの女であればいいんです。あとはお互いに自由ですよ。彼女がどんな男とセックスしようと、ぼくには関係ありません。独占しようとするから苦しむんですよ。身も心も百パーセント自分のものにしておきたいと思うから悩むんです」 「そういう考え方ができれば倖せですね。そんなに割りきれないから人は苦しみ恨み、恨み憎むんです。ぼくなんか凡俗ですから、彼女に裏切られれば身のおきどころがなくなる」 「所詮は男と女でしょう。男と女がやることと言えばたいてい同じです。ただ肉体的な快楽だけですよ。情を絡めるから喜怒哀楽が出て来る」 「情を絡めてはいけないんですか」 「いけないと言っても、人間だから仕方ないんでしょうがね。少なくともぼくと史子の間にはそのようなものはなかったですね。そのとき楽しめればそれでいいじゃないですか。明日、史子がどんな男に抱かれても、それはぼくには関係ないことでしょう」 「刹那《せつな》主義と言うんですか、そんなのを」 「刹那主義、そうかもしれませんね。少なくとも史子はそうだったのじゃないかな。ぼくが他にどんな女とつき合っているかなど、全く気にしませんでしたね」  やはり、ご立派と言うべきだろう。一行は靖子のことでキリキリ苦しんだのだ。恋人というわけでもないのに。凡俗なんだろう。中志茂みたいに達観はできないのだ。 「中志茂さんは、その公文麻衣子という女に会ってみたいとは思いませんか」 「え?」  と彼は目を見開いた。 「ほら、山下公園事件の容疑者ですよ。彼女もまたなかなかの美人ですよ。いま税理士をやっていますけどね」 「その女にぼくを会わせたいわけですか」 「会わせたいですね」 「ぼくは公文麻衣子なんて女は知りませんよ。あなたに聞いたのがはじめてです」 「でも、興味はありませんか」 「ないですね、と言えばあなたはぼくを疑うんでしょう。交換殺人をやったのだから、他人のふりをしていよう、とその女と約束したなんて」 「そうではないんですか」  これは刑事のやり方である。チクリチクリと相手を刺していく。 「鏑木さんも人が悪い」 「中志茂さんは、美人は嫌いですか。いま立見史子さんが亡くなって淋しいところでしょう」 「どうしても会わせたいわけですか」 「会わせてみたいですね」 「ぼくがどんな反応をみせるかですか」 「ぼくがセッティングしますよ。会ってみて下さい。ぼくなど相手にされませんが、中志茂さんだったら、彼女も反応をみせるかもしれません」 「おかしな探偵さんだ。ぼくに女を世話しようと言うんですか」 「お互い、交換殺人を疑われた相手です。興味はあると思いますがね」 「交換殺人の疑いを晴らすためにも会うべきだと?」 「そういうことにもなりますかね」 「それじゃ、むこうの意志を確かめて連絡下さい。出かけるようにします」  たしかに、中志茂と麻衣子を会わせてみるのは面白いかもしれない。どのような反応をみせるか。交換殺人はとにかく、二人とも殺人の容疑者だから、意外に話は合うかもしれない。     4  坂田俊夫は国立駅の近くで酒店をやっていた。中志茂の同窓生で、新宿の『はつもみじ』で四月二十四日に呑み会をやった一人である。その酒店を訪ねた。  坂田俊夫は酒店にいた。いまは酒店の若旦那である。結婚して子供が二人いる。 「ええ、新宿の『はつもみじ』で呑み会をやりましたよ。そうだな、三日前に決ったのかな。電話がありました。あのときの言い出しぺは中村だったかな。二十四日空いているか、榊田《さかきだ》先生を呼んで二十四日に集まろうということで、十人ほど集まるはずだったんだが、出て来たのはぼくを加えて六人、それに先生、七人だった」 「中志茂さんははじめから?」 「集まったのは八時だったんだ。中志茂だけが三十分遅れて来たんだ。出版社の編集者と話込んでいて遅れた、としきりに弁解していたんです」 「二十四日というのは誰が決めたんですか」 「中村じゃないですかな。毎年そうだから、誰かが言い出すんですよ。するといいだろうということになって、それぞれ電話連絡するんですよ」  中志茂のアリバイが作られたものだったら、二十四日の呑み会には作為がなければならない。この辺は丸の内北署の捜査本部でも当然調べているはずだ。ところがこの坂田のところには刑事が来た様子はない。  もちろん、中志茂が作ったアリバイならば、他にもアリバイを作る方法はあったはずである。 「すみません、一つ頼まれてくれませんか」 「何ですか」 「その中村さんに、二十四日の呑み会はどうして決めたのか。実は中志茂さんには殺人の容擬がかかっているんですよ」 「殺人の?」  一行は簡単に説明した。 「わかりました。そういうことだったら」  と坂田は電話に立っていった。そしてしばらくしてもどって来た。 「中村は、榊田先生に二十四日でどうだ、と言われたと言いました。中村も二十四日は空いていたようです」 「呑み会が八時にはじまるというのは少し遅すぎるんじゃないですか」 「そうですね、遅いですね。たいていは六時くらいからですね。おれもそのとき、おかしいなと思いましたよ。でも、みんなの都合を合わせなければならないし、誰かの都合で八時になったのだと思いますけどね」 「いま、その榊田先生はまだ学校に?」 「いいえ、もう停年で、たしか三鷹だったな。ちょっと待って下さい」  と言って住所録を持って来た。その中から榊田公平の部分をメモした。榊田公平はいま七十歳くらいだろうと言う。  坂田に礼を言って酒店を出た。もし二十四日の呑み会に中志茂の作為があったとしてどうなるのだろう。中志茂は八時半には新宿にいた。それを証明するには、友だち一人と待ち合わせていてもよかった。六人を料理屋に集めることはなかった。だから捜査本部でもただ確認をとっただけで、その裏まで調べることはなかった。  中志茂が立見史子を殺したのであれば、殺して急いで東京にもどろうとすれば、福岡空港の日本航空372便しかないはずである。これが羽田に着くのは二〇時一〇分。八時十分から八時三十分までの二十分で新宿に行くのはむりだ。  ここで四十分ほど足りない。 「四十分か」  と呟いてみた。もとにもどって考えてみる。立見史子が苦しみはじめたのは十六時五十分だった。彼女は三十分後に死んでいる。『はやぶさ』から最も早く空港に駆けつけるには福岡空港しかない。 「この四十分はどうにもならないのか」  これは何度も考えてみたことだ。捜査本部だって同じことだろう。八時半の呑み会は捜査本部でもたいして問題にはならなかった。だから確認をとっただけですました。  一行は三鷹で降りた。住所を駅前の交番で確かめた。バスで行くらしい。バスに乗って二十分ほど。バスを降りて聞くとわかった。三十年ほど前に建てられたとみえる古い建売住宅だった。  榊田公平は家にいた。年金生活者らしい。 「この間の新宿での呑み会のことですが、言い出したのはどなただったのですか」いきなり聞いた。 「あれは、中志茂くんだったな。中志茂くんが電話して来て、二十四日あたりいかがでしょう、と言った。わしもその日は用がなかったので、中村くんに二十四日ではどうか、と電話したのだ」  呑み会を二十四日にしたのは中志茂だった。なぜだ。アリバイを作るために呑み会をその日にすることはなかった。  四月か五月に、榊田先生を呼んで一杯のむという話は以前からあった。毎年のことだそうだ。だから誰もおかしいとは思わなかった。中志茂はこの呑み会をアリバイに利用してやれと思った。  このときはじめて、一行は中志茂が黒だと思った。アリバイは崩れていない。だが、作ったアリバイなら必ず崩せる。  中志茂は、女は会っているときだけ自分の恋人であればいい、と言っていた。これはほんとだろうか、と考えはじめた。立見史子が他のどんな男と寝ても関係ないと。聞いているとひどく立派に聞こえる。立派すぎて羨ましくなる。  中志茂が自分と同じ嫉妬深い男だったら、と思ってみる。史子は男から男へと渡り歩いている。そういう性格だったのだろう。一度に二、三人の男がいたのかもしれない。  こういう女に惚れてしまったら、男はどうなるのだ。男は狂うしかなくなってくる。中志茂は史子に狂わされて殺してしまったのではないのか。自分を生かすには史子を殺すしかなくなる。  一行は、夕飯を外ですますと、高円寺のアパートにもどった。酒はのみたくなかった。酒をのめば、よけい苦しくなるのだ。失恋したからと言ってヤケ酒なんかのんではいけないのだ。  小さな部屋でもシャワー室はついている。小さな空間に入ってシャワーを浴びる。その間も中志茂のことを考えていた。そのほうが楽だったからである。  電話のベルが鳴っていた。バスタオルで体を拭い、受話器を把《と》った。 「はい、鏑木です」 「あたし、靖子です」 「ああ」  と気のない返事をした。 「どうして、今日電話をくれなかったの。ずっと待っていたのに。昨日のことで怒っているの、だったらごめんなさい」  ごめんなさいですましてもらっては困るのだ。 「昨夜はヤケ酒のんでチンピラと喧嘩した」 「ウソ、そんなのウソでしょう。そんなことないはずよ。あたしのことでヤケ酒なんて」 「ウソじゃないよ」 「だったらうれしいけど」  何てことを言うんだ、と思った。一行が苦しんでいるのを、うれしいと言うのか。 「実はね、あたし、昨日はお見合いだったの。むりやりに叔母に誘い出されて、四十二歳のコブつきなの。ねえ、聞いているの。会いたいわ。いいでしょう。明日はどうかしら、いますぐ会いたいけど、もう十時だし、若い女が出かける時間じゃないし」  一行は黙って聞いていた。  五章 似合いのカップル     1 『はやぶさ』殺人事件など、鏑木一行にはどうでもいいことのはずだ。一行が調査を頼まれているのは�悠介殺し�なのだ。だが、山下署の刑事が言うように、交換殺人だったら、丸の内北署の事件もよその事件とは言っていられない。  交換殺人だったら、反町悠介を殺したのは、中志茂吉昭ということになるわけだ。中志茂も無視できない。だが、彼はアリバイ工作をしている。呑み会を四月二十四日にしたのは中志茂だった。もし、悠介を殺したのが中志茂だったら、八時には新宿『はつもみじ』に着ける。  悠介の死亡は六時二十分、その時刻に悠介は拳銃で射たれたわけではない。解剖医は射たれてから十分は生きていただろう、と言っている。  すると中志茂が射ったとすれば、六時十分、それから八時までは一時間五十分ある。山下公園から桜木町まで歩いて行ったとしても、関内のほうが近いのか、どちらにしても新宿には八時前に着けるはずだ。  それなのに中志茂は『はつもみじ』に八時半に着いている。この三十分の差は何なのだ。まさか三十分、パチンコで時間をつぶしていたわけではないだろう。  京浜東北線を品川で乗り換えても、桜木町から一時間と少しではないのか。乗ってみるとわかる。七時半に新宿に着ける。八時半までの一時間は一体何なのだ、ということになる。  だったら八時の呑み会は少し遅すぎる。七時にしておいて、三十分遅れたことにしたほうが自然だったのではないか。  中志茂は出版社の編集者と会っていた、と言う。その辺を問いつめるとどういうことになるのか。そこを追及していく手もある。  追及していけば、交換殺人ではなくなってくる。すると中志茂は一行にとって用のない男ということになる。丸の内北署の捜査本部を助けることになるのだ。  このことを北署の捜査主任に知らせてやったら、中志茂を追及してくれるだろう。だが教えてやるのはあとにしたかった。その前に中志茂と公文麻衣子を会わせることだと思った。麻衣子も中志茂との交換殺人を疑われていると言えば、中志茂と会うだろう。  交換殺人でなければ、二人はどうするだろう。ただ顔を合わせただけで左右に別れるだろうか。二枚目と美女である、そのままではすまないような気がする。案外これも面白いかもしれない。  悠介殺しの容疑者は公文麻衣子だった。一行はむしろ麻衣子のほうを追うべきだったのだ。彼女にもはっきりしたアリバイがある。ほんとに崩れないアリバイなのかどうか、もう一度、検討してみる必要がある。だが、もう少し中志茂にこだわってみたかった。 �女なんて�と言う言い方が気に入らなかった。ほんとに自分の女が他の男と寝ても平気なのか。ただの見栄であんなことを言っているのか。見栄だとしたら、その皮をひんむいてやりたいと思った。  今日は午後六時に靖子と会うようになっている。マンションの部屋にはしなかった。マンションの近くにある喫茶店『ブロンド』にした。 「急用ができたら、必ず電話をくれ」  と言った。一昨日のような思いはいやだったのだ。 「今日は必ず行くわ」  と言った。おそらく靖子は一行があれほど苦しんだとは思っていない。そういう女の思いやりのなさがいやだった。だが、いまは一行が靖子に惚れているのだ。どうしようもない。惚れているほうが弱い。男と女のバランスというのはとれていないのが普通だ。男が惚れているか、女が惚れているかによって違ってくる。相思相愛なんてバランスのとれた男女というのは少ない。  一行は中志茂に電話した。彼は部屋にいた。 「昨日はどうもお邪魔しました。一つお聞きしたいことができましたので」 「何でしょうか」 「四月二十四日、榊田先生たちとの呑み会に三十分遅れられたそうですね」 「それがどうかしたんですか」 「出版社の人と会っておられたということですが、どこの出版社の誰と会っておられたんですか。教えていただけると有難いんですが」 「ええと、誰だったかな、いまちょっと思い出せないな、待って下さいよ、そうだ、博文出版社の伊藤くんだったな」  礼を言ってすぐに電話を切った。博文出版社の電話番号を聞いた。そして博文出版社に電話を入れ、伊藤という編集者がいるのか、と聞いた。他の編集者が出て伊藤は電話中だと言った。一行はそのまま待った。  十数秒して伊藤が電話に出た。 「ちょっとお聞きしたいのですが、よろしいでしょうか」 「何でしょうか」 「鏑木と申します。絵描きの中志茂さんのことでお聞きしたいんですが」 「ですから、何ですか」 「これからそちらへうかがいます。一時間ほどで行けると思いますので、よろしくお願いします」  と言って電話を切り、アパートを出た。博文出版社は神田にある。電話で、四月二十四日の八時ころ中志茂さんと会っていましたか、と聞けば、会っていたと言うに決っている。いま伊藤が電話に出ていたというのは、中志茂からの電話だったのに違いない。  こういうことは電話で確認を取ってはいけない、と刑事のころ教えられた。会って確認を取らなければならない。会えば嘘を言っているかどうかわかるのだ。  どうにか一時間で博文出版社に着いた。受付で伊藤さんに会いたいと告げた。そこでしばらく待たされた。何時間でも待っているつもりだ。伊藤が逃げ出せば、どこまでも追っていく。だが、逃げられないはずだ。  十分ほどして三十すぎとみえる痩せた男が出て来た。ふてくされたような顔をしている。 「お待たせしました。ぼくが伊藤です。鏑木さんですか」 「どうもお忙しいところ、すみません」 「用件は早くすまして欲しいんですが、忙しいもので」 「すぐすみます。四月二十四日、あなたは中志茂吉昭さんと会われましたか」 「どうだったかな、中志茂先生には挿絵をおねがいしているもので、ときどき会うんですよ」  と内ポケットから手帳を出した。そしてペラペラとめくる。 「ああ、会っていますよ。四月二十四日、午後七時に渋谷で会いました。別れたのは八時すぎだったかな」 「ほんとですか」 「ぼくが嘘を言っていると言うんですか」 「ほんとだったらいいんですが、これは殺人事件なんですよ。もし嘘をおっしゃっているのなら偽証罪になりますよ」  伊藤の顔が強張《こわば》った。 「では、もう一度、丸の内北署の刑事がうかがうことになります。いま『はやぶさ』殺人事件の捜査本部ができています。捜査主任の藤井警部に電話してお聞きになって下さい」  伊藤の顔が青くなった。こんな男を喋らせるのは簡単だった。『はやぶさ』の事件は知っているはずだ。 「どうもお邪魔しました」 「ちょ、ちょっと待って下さい」  一行は足を止めて振りむいた。相手を追いつめるコツは知っている。 「中志茂先生が犯人ですか」 「犯人とわかっていればここへは来ませんよ。ちょっと疑わしいところがあるんです」 「実は、いま、中志茂先生から頼まれたんです。四月二十四日の午後八時すぎまで一緒にいたことにしてくれって」 「それであなたは引き受けたんですね」 「はい、すみません」  と頭を下げた。 「では、四月二十四日、中志茂さんとは会ってはいないんですね」 「はい、会ったのはその二日前でした」 「どうも、有難う」  と言って、一行はその場を離れた。  中志茂は呑み会をセッティングし、アリバイ工作を行っている。だが、彼のアリバイが崩れたわけではなかった。だが、そこには何かがある。何もなければ呑み会を二十四日にする必要はなかったし、また博文出版社の伊藤にアリバイを頼むことはなかったのだ。何のために? もちろん立見史子殺しのアリバイを作るためにだ。  一行は足を丸の内北署に向けた。捜査主任の藤井に恩を売っておく必要がある、と思ったのだ。 「ふむ、それは面白いね」  と藤井は言った。 「だが、こちらにも容疑者が出て来ている。立見史子に金を注ぎ込み、会社の会計に穴を空けてクビになった男だ。鏑木さん、女には惚れるものじゃないね」  と藤井は笑った。 「その男にはアリバイがないんだ。これから参考人として呼んで絞りあげるつもりだがね」  一行の情報なんて、あまり気にしている様子もなかった。もちろん警察には警察の捜査方法がある。それに口を出すつもりはない。北署を出ると公衆電話で山下署の的場刑事に連絡を取ってみたが不在だった。  交換殺人なら、つまり中志茂が反町悠介を殺したのなら、伊藤にアリバイを頼むことはなかった。それに山下公園から新宿の『はつもみじ』まで一時間五十分ほどの余裕がある。わざと遅れてみせる必要はないのだ。そこで目立つ必要もなかった。  山下署としても、交換殺人でなければ中志茂のことはたいして意味がなくなるのだ。容疑者は中志茂ではなく公文麻衣子なのだから。あるいは別に容疑者が出たのかもしれない。的場刑事も来須刑事も、一行に交換殺人のことを頼んだことを忘れているとも考えられる。  一行は思いついて、公文麻衣子に電話してみた。彼女は事務所にいた。事務所は八重洲口の近くにある。 「話があるのでお会いしたいんですが」 「いいですわ」  と麻衣子は言った。一行は事務所の近くの喫茶店に入り、そこから再び電話した。それから五分後に姿を見せた。やはり美人だ。もちろん顔だけではない。美人の条件というのがある。脚の形、尻と腰の形、全体のバランス、そして首の長さ、笑って歯茎が出ないことなど、三十数項目あるのだそうだ。 「どうも、お呼び立てしてすみません」 「時間は三十分くらいにしていただけますか」 「けっこうです。三十分はかからないと思います。あれ以来、山下署の刑事は来ませんか」 「ええ、おみえになりませんけど」 「四月二十四日に、もう一つ殺人事件があったのをご存知ですか。『はやぶさ』の中でです。あなたが乗っておられた」 「いいえ、存じません」 「殺されたのは青山のブティックのデザイナーなんです。その容疑者が絵描きの中志茂吉昭という男です」 「それがどうかしたんですか」 「その中志茂のアリバイも崩れない。公文さん、あなたのアリバイも崩れないんです。それで山下署の刑事は交換殺人ではないかと考えたわけです」 「交換殺人?」 「ええ、あなたと中志茂が殺す相手を交換するんです。つまり、あなたが立見史子を殺し、中志茂が反町悠介を殺すんです。そうするとアリバイなんて面倒なものはいらなくなるんですよ。あなたは『はやぶさ』に乗っていたのだから立見史子を殺せる。殺してそのまま知らん顔で『はやぶさ』に乗っていればいい」 「ばかばかしい」  と吐き出すように言った。 「殺すには、そのほうが楽なんですよ。あなたの場合、『はやぶさ』を降りて山下公園で悠介を殺し、また『はやぶさ』にもどるなんて面倒なことをしなくてすむんです。中志茂だって熊本を出たところで史子を殺し、急いで東京にもどり仲間との呑み会に駆けつけるなんて忙しいことをしなくてもいいんです。殺しもやはり楽なほうがいいですよね」 「あなた、何言っているんですか。あたしは悠介を殺していません。まして立見史子さんなんて会ったこともないんですから」 「もちろん、交換殺人説には何の根拠もありません。ただの推理です。まあ、山下署でそういう考え方をするくらいですから、あなたのアリバイは完璧なわけですが」 「鏑木さんは、その交換殺人を信じていらっしゃるんですか」 「可能性はあります。だがそのためにはあなたと中志茂の自供が必要ですね」 「あたしには悠介を殺す動機がありません」 「動機はおれがじっくり調べますよ」 「何かが出てくるとお考えなんですか」 「そう考えています。流しの犯行でない限り動機は必ずあるものです」 「どうぞ、ご勝手に」 「ところで、交換殺人ですが、あなたはもちろん中志茂をご存知ない?」 「知りません。その殺人事件すら知らなかったんですから」 「公文さん、中志茂さんに会ってみませんか」 「えっ?」  と麻衣子は一行を見た。 「どうしてあたしがそんな人に会わなければならないんですか」 「交換殺人なら、あなたと中志茂は知り合いでなければなりません。殺す方法を二人で打ち合わせもしたでしょうからね。もちろん、その場合、お二人は事件が下火になるまで会うまいと約束する。あるいは一生会わないことにしたのかもしれない」 「バカバカしい」 「たしかにバカバカしいことです。でも中志茂はあなたに会ってもいいと言っています。そのほうが交換殺人の容疑がなくなるんじゃありませんか。中志茂とあなたは似合いのカップルと思うんですがね」  麻衣子は黙った。 「いまは山下署も丸の内北署も、別に容疑者を追っているようですが、それらがみんな白になったとき、捜査本部は再びあなたと中志茂に目を向ける。交換殺人となれば、合同捜査本部ができる。あなたが中志茂に会うのを拒否されると、やっぱり交換殺人だったのか、ということになる。荒っぽい筋立てですがね、その中志茂という男に興味ありませんか。立見史子殺人の容疑者です。あなたは反町悠介殺しの容疑者です。そういう意味でも似合いのカップルだと思いますがね」  麻衣子は、頭の中でいろいろと計算していることだろう。会うべきか会わざるべきかと。 「会ってどうするんですか」 「まあ、気楽にお酒でも呑んで雑談ということになりますか。お会いになる気がおありでしたら、おれがセッティングしますよ」 「面白そうね」 「そう、面白いですよ。それで、いつが暇ですか、善は急げです。あなたの暇なときに、中志茂も合わせるでしょうから」 「そう、明日の夕方なら、六時以後」 「場所は新宿です。では六時半でいいですか」 「六時でけっこうです」  一行は頷いて席を立ち、レジの近くにある赤電話に立った。中志茂のダイヤルを回す。彼は部屋にいた。部屋が仕事場だから当然だろう。明日六時、と言うと彼はけっこうだ、と言った。場所は彼のお気に入りの『はつもみじ』である。もどって来て、 「中志茂も明日六時に出て来るそうです」  と一行は、『はつもみじ』の場所をていねいに説明した。     2  中志茂と麻衣子を会わせてどうしようというのだ、と自問してみる。二人が会ったからといってどうなるものではない。だがいまのままでは二人のアリバイは崩れない。膠着《こうちやく》したままの状態だ。そこに何か変化を起してみようと思ったのだ。  二人を『はつもみじ』で紹介する。あるいは酒をのんでお喋りして終りかもしれない。だが一行は、二人がお互いに興味を持つのではないかと考えた。つまり、リアクションを起す。そこに何かが出て来るのではないかと。  場面が膠着したときは、ゆさぶってみることだ。そして何が出て来るかに期待する。  一度、熊本まで行って来なければならんかな、と思う。二つの事件とも熊本が基点となっている。立見史子は熊本の生まれで両親がいる。公文麻衣子は姉が結婚して熊本にいるのだ。山下署も丸の内北署も、刑事たちが熊本に行っているはずだ。一行の耳には何も入って来ないから、熊本には何もなかったのだろう。だが、一行には違ったものが見えて来るかもしれないのだ。  一行は、青山の喫茶店『ブロンド』に向った。今日は靖子にすっぽかされることはないだろう。用ができたら店に電話して来るだろう。  約束より少し遅れて店に行ってやろう、と思ったが惚れた弱味というのか、それができなかった。七時に十分も早く着いてしまった。だが靖子は先に来ていたのだ。 「一昨日はごめんなさい」  と照れ笑いしながら言った。 「お見合いのほうはどうだった?」 「ひどいのよ。叔母が持って来た話だから、叔母の顔を立てなければならないので。四十二歳、コブつきなの。背が低くてずんぐりして、オジさんって感じなの。いい人らしいけど、あたし哀しくなっちゃった。そんな男としかお見合いできないのか、と思ったら。でも出もどりにはそういう話しかないのよね。あたしはまだ若いし、きれいだし、どうしてそんな人と結婚しなければならないの。実家はお金あるらしいけど、馬鹿にしているわ」  たしかに靖子はまだ若いし、きれいだ。そんな男にはもったいない。といって一行自身はどうなのだ。靖子にふさわしい男であるわけはない。自分で食っていくだけの生活力もないのだ。元刑事のごろつきみたいなものじゃないか。 「そうだ、忘れないうちに返しておこう。きみから預った五十万だ。反町さんから調査の依頼を受け百万円預ったからね」 「あら、そんなのいいのに」 「金のことはキチンとしておきたい。調査で足りなくなれば、また反町さんから出してもらえばいい」  一行は五十万円の入った封筒を靖子に押しつけた。 「そうね、じゃ返してもらうわ」  と封筒をハンドバッグの中に入れた。 「じゃ、行きましょう」  と靖子は伝票を持って立ち上る。 「ちょっと待った。事件のことは聞かなくていいのかな」 「依頼人は父よ。父に話してちょうだい」 「まあ、きみの兄さんのことだよ。知っておくべきじゃないかな」  そうね、と言って靖子は坐り直した。 「容疑者は出た。公文麻衣子」 「ああ、日記のM子ね」 「きみより背丈は低いが、きみと同じくらいの美人だ」 「兄はわりに面くいだったから」  立見史子殺害事件を話す。その容疑者中志茂のことも語った。 「二人とも、アリバイはあるんだ。これはちょっと崩せそうにない。それで山下署の刑事は交換殺人を考えた」 「交換殺人? 面白そうね」 「面白がっちゃいけないね。悠介が殺されているんだよ」 「そうだったわ。でも交換殺人なんてあるの。推理小説の世界じゃないの」 「交換殺人なら、二人にはアリバイはないことになる。おれは交換殺人じゃないって思っているけどね。あるいは交換殺人かもしれない」 「でも、交換殺人だとしたらおかしいんじゃないの。二つとも同じ日というのが。別の日にしたほうがよかったんじゃないかしら」 「たしかにそれはある。一ヵ月くらいずらしてやれば、全くわからなかったかもしれない。何も同じ日に二人を殺すことはなかった。そういう意味でも、別々の事件だろうな。だけどおれは、中志茂と公文麻衣子を会わせることにした」 「お互いに全く知らない人たちでしょう」 「交換殺人でなければね。明日、この二人を会わせる。どういうことが起るか楽しみだ」 「一行さんだって楽しんでいるじゃない」 「おれはあくまでも第三者だからね」 「楽しんでもいいわけね」 「そろそろ行こうか」 「どこへ行くの」 「そこのマンションさ」 「何のために」 「きみを抱くためさ」  靖子は笑った。 「そういう一行さんが好きなのよ。別れた夫はストレートにものが言えなかったの、もじもじして、いつもあたしの顔色をうかがっているの。女の腐ったみたいな奴《やつ》、ってあの人のような男を言うのね、うじうじとして、あたしたまんなかったの」 「きみが強すぎたんだよ」 「親ばなれができていなかったのね。マザコンなのよ」  二人は喫茶店を出る。そしてマンションに入る。五一二号室の前に立つ。靖子がドアを開け中に入る。ドアを入ったところで、靖子が抱きついてきてキスした。 「ほんとにごめんなさい」  と言った。  ねえ、バスを使って、と言った。部屋の中はきれいに片付いていた。靖子が来て掃除したのか。 「あたし、さっきまでここにいたのよ。だからお風呂にはお湯が入ってるわ」  一行は裸になってバスルームに入った。ホテルのバスタブではない。ちゃんとした風呂だった。風呂の中に体を沈める。靖子も一緒に入ればいいがな、と思う。浴室はわりに広くとってある。  悠介は女をこの部屋に連れ込んで来て、一緒に風呂に入ったのか。公文麻衣子がM子だとすると、彼女もこの浴室に入って来たのだろう。多くの女たちがこの風呂に入った。浴室の中でたわむれるだけの空間はある。  浴室のドアを開け、 「きみも一緒に入らないか」  と声をかけた。 「恥ずかしいわ」  と答えた。一緒に風呂に入るにはもう少し馴れ合わなければならない。一行は流しに出て体を洗いはじめた。するとドアが開いて全裸の靖子が入って来たのだ。一行は目を見開き、びっくり仰天した。まさか、と思ったのだ。何か圧倒されるようだった。もちろん胸から股間までタオルで隠してはいる。大胆な女なのだ。  はじめてのときには�あたしに恥をかかせないで�と言った。湯槽《ゆぶね》のそばに体を縮めて湯を浴びる。少しぬるいわね、と言って湯を注ぎはじめる。そして湯の中に入った。白い肌で体は快く締っていた。もちろん、体に自信があるから、一行の目に素肌をさらしたのだろう。 「どうしたの」 「いや、びっくりしている」 「だって入って来いと言ったの、一行さんじゃないの。でも、あたし、きれいだと思っているから」 「きれいだよ。でも、きみにそんな勇気があるとはな」 「勇気じゃないわよ。自信がなければ、一緒にお風呂になんて入れないわ」 「あまり驚かさないでくれよ。また縮んじゃうじゃないか」 「あら、そんなのいやよ」  一行の過去にこんな女はいなかった。どこか常識外れのところがある。もちろん男と女は常識通りにやらなければならないということはない。もっとも人妻だった女である。大胆で当り前かもしれない。  彼女は流しに出て来て、一行の背中に抱きついて来た。胸の二つの膨らみが押しつけられて来る。 「ヤケ酒のんで喧嘩したってホント?」 「ほんとだよ」 「だったら、うれしい」  と言った。もちろん自分の苦悶を喋るつもりはない。一行にだって矜《ほこ》りはあるのだ。背中を流してくれる。手を後ろに回した。女の腿に触れた。背中を洗うと、また背中に抱きついて来て、ペニスに触れて来た。ぺニスは怒張していた。いまにもはじけそうだ。  一行が向きを変えようとしたら、ここではいや、と言った。浴室は男と女にとってたわむれる所である。だが、ここで無理することはなかった。首筋から泡を洗い流してくれる。彼は湯槽に入った。靖子は体を洗う。それを眺めていた。  白くて半透明の肌だった。肌には光沢があった。若いのだ。彼女は横向きになっている。乳房と腰の線があらわだった。なだらかな曲線を描いている。手を動かすと乳房がふるえた。尻から腿の肉付きがきれいだ。  一行は湯槽から上ると、靖子の背中に抱きついた。そして二つの乳房を手にする。快い弾力だ。 「ねえ、先に上って待ってて、冷蔵庫にビールが入っているわ」  彼は背中を離れると回り込んで前に立った。靖子の目がうろたえた。だが、そっと手をのばして来てペニスを握った。そして尖端に唇を押しつけて来た。尖端をなめらかにすると、ペニスが靖子の唇の中に滑り込んでいった。     3 『はつもみじ』は、靖国通りのビルの三階にある。もちろん、料理屋だから畳敷きの和風である。広い座敷にテーブルが並べられ、そのテーブルを衝立《ついたて》で仕切るようになっている。  一行は昨日のうちに予約しておいた。予約しないと席がとれないこともあるのだ。一行は五時半に『はつもみじ』に行った。中志茂吉昭と公文麻衣子が来るのは六時になっている。  窓辺の席に坐った。ガラス越しに靖国通りが見える。どうしてこんなに人が多いのだろうかと思うほど人が流れている。まだ退社時刻には少し早すぎる。人通りはこれから更に多くなっていくのだ。  あと二人来るから、と言ってビールを運んでもらった。料理は二人が来てから決めればいい。  眼下の人の流れをぼんやりと見ながら、昨夜の靖子を思い出していた。前回とは違い、一行もわりに冷静だった。一行が冷静なわりに靖子は悶え狂った。独身の二十八歳とは違う。人妻だった女だ。感度も磨かれていた。興奮すると白い肌が色づいてくるのだ。乳首も膨らみ紅色に染まった。  まず視覚で靖子をたのしんだ。彼女は部屋の中を暗くしてくれとは言わなかった。羞恥心《しゆうちしん》が薄いのか。だが女はこうあるべきだ。羞恥心は邪魔になることがある。  靖子はマンションに泊った。泊ってくれというのを無理に帰った。女とは寝るものではあるけれど眠るものではない、という常識を破るつもりはなかった。あまり馴れ馴れしくすると欠点が見えてきて飽きてくる。やはり靖子は大事にあつかいたかったのだ。親しき仲にも礼儀ありというのは、男と女の関係だと一行は思っている。靖子がいかに美人であっても醜い部分はあるはずだ。百パーセント美人というのはあり得ない。  あまり馴れ合うと肛門がゆるむという。一行は靖子の屁は聞きたくなかった。屁一発でイメージが全く違って来ることもあるのだ。男と女の付き合いというのは、どこかに見栄がなければならない。醜い部分はひた隠しに隠さなければならない。  一行は、むかし、ある女とラブホテルに行った。そのときはお互いに激しくて泊った。そして朝、ホテルの前で別れるとき、歩き去っていく彼女の尻を見た。彼は眉をひそめた。前日は魅力的な尻だったのが、朝は妙にきたならしく見えたのだ。その女とは二度と会わなかった。つまり、親しき仲にも礼儀ありということだろう。馴れすぎると醜いものが見えてくる。一行は自分ではそれほどデリケートだとは思っていないが、妙にそういうことだけは気になる。  昨夜の靖子は美しかったし魅力があった。できれば、そういう靖子を見ていたかった。何だか靖子が自分の女のように思えて来て、思わず苦笑した。  そこへ中志茂吉昭が姿を見せた。ちょうど測ったように六時だった。麻衣子はまだ現われない。中志茂は向いに坐った。 「彼女はまだですか」 「美人というのは遅れてくるものですよ。そのほうが美人らしい。美人が早くきて待ってたりしたらサマにならない」 「まあ、それは言えますけどね」  昨日の、博文出版社の伊藤に頼んだアリバイ工作のことは何も言わなかった。とりあえず、ビールと一品料理を頼んだ。 「その女性をぼくに会わせてどうしようというんですか」 「どうしようという気はありませんよ。お二人を紹介するだけです。そのあとどうなさろうとお二人の勝手です。考えてみれば、おれももの好きですね」 「鏑木さんの考えていることがわかりませんよ」 「おれ自身にもよくわかっていないんです。でもいいじゃないですか、共通点はあるんです」 「殺人の容疑者だってことですか」 「中志茂さんは、女性にもてるんでしょうね」 「それほどでもありませんよ。女と遊ぶにはマメでなければいけないと言います。容姿ではないんです。ぼくはそのマメさがありませんからね。面倒くさがりやなんですよ」 「でも、立見史子さんとは激しかったんでしょう」 「いい女ですからね。でもぼくが激しかったのではない。彼女のほうがぼくを誘ってくれたんです。もちろん誘われればいやではありませんからね」 「ごめんなさい。遅くなりました」  と公文麻衣子が姿を見せた。十五分遅れていた。男を待たせるのは十五分くらいが一番いいところなのだろう。  一行は麻衣子を中志茂の向いに坐らせた。彼は二人とは三角形の位置に坐った。そして二人を紹介する。二人はお互いにお互いを観察している。  そこで二人の注文を聞き�おこぜ�のワンコースを頼んだ。刺身から天婦羅、鍋になりそしておじやだ。 「おれがお誘いしたんですから、この店は持ちますから」  と言った。中志茂は金がないだろうし、麻衣子だって税理士である。そんなに金持ちではない。飲食代を気にしていたのでは、酒も料理もうまくない。もちろん、一行だっていつも懐中具合を気にして酒をのんでいる。  おこぜの刺身が出た。それをきっかけに、一行はトイレに立つふりをして、女将に金を預けた。充分に足りる金額である。コースだからだいたいの値段はわかる。三人分だから、かなり食えるはずである。そのまま店を出る。やがて二人は一行が気を利かせたことを知るはずである。二人がどうなるかは責任のないことだ。  ビルを出ると電話ボックスを探した。電話はふさがっていた。そのまま高円寺のアパートに帰る。そして山下署に電話を入れた。来須刑事がいた。  これまでの調査の報告をした。 「いま中志茂と公文麻衣子は酒をのんでいます」 「それは、どういうことですか」 「おれがセッティングしたんです。何が出て来るかわかりませんが」 「大胆なことを。二人が交換殺人をやっていたらどうするんです」 「そのときは、どこかでボロを出すでしょう。捜査本部はどうなんですか」 「容疑者が三人いる。三人ともアリバイがなくてね、捜査員たちは走り回っているんだけどね」 「来須さん、アリバイのある人を疑うべきじゃないですかね、犯人はアリバイを用意しているものでしょう」 「そうは言ってもね。もちろんアリバイの裏はみんな取っているんですけど、今度の事件は容疑者が多すぎるんですよ」 「丸の内北署も同じことを言っていました」  中志茂のアリバイは、どうやら工作されたものらしいことを告げておいた。的場と来須は、交換殺人らしいと言いながら、本人たちは交換殺人だとは思っていないようだ。何かよほどの証拠でも出れば別だが、二つの捜査本部には不可侵条約みたいなものがあるのだ。できるだけ相手の事件には触らないようにしている。  電話を切って『はつもみじ』に電話して女将を呼び出してもらった。 「二人の様子はどうですか」  と聞いた。 「仲よく呑んでいらっしゃいますよ」  礼を言って電話を切った。すでに一時間以上経っている。引き合わせはどうやらうまくいったようだ。     4  八重洲口近くのビル三階に税理士事務所がある。公文麻衣子はその事務所にいた。机と椅子、机の上には電話がある。それが麻衣子の空間である。先輩の税理士の事務所に入れてもらったのだ。それでも数社の会社の税金、何人かの個人の税申告を受けもっている。これでけっこう忙しい。  麻衣子は帳面を伏せ、ペンを置いた。申告の時期は過ぎた。いまは比較的にヒマな時期である。  ぼんやり中志茂吉昭のことを思い出していた。中志茂を男として興味を持ったということではない。だが、興味がないわけではない。一人の女を殺したという意味でだ。  三日前、私立探偵という鏑木が中志茂を引き合わせてくれた。麻衣子自身も反町殺しの容疑者である。アリバイが崩せないところから、山下署では立見史子殺しの容疑者、中志茂との交換殺人ではないかと疑ぐった。  その中志茂と麻衣子を鏑木は会わせようとした。どういうつもりなのかはわからないが会わないと言えば、妙なところで勘ぐられることになりかねない。それで会ったのだ。  自分が乗った寝台特急『はやぶさ』で殺人事件があったなんて、鏑木に聞かされるまで知らなかったのだ。テレビでも新聞でも報道したのだろうが見逃していたのだ。  アリバイが崩せないから交換殺人だろうと考える捜査本部の思考の貧困さは噴飯ものである。交換殺人を考えた刑事の頭の組織はどうなっているのだろうと思う。  同じ日に交換殺人なんてやるわけはない。交換殺人なんて発想は面白いけど、それをやるんだったら日にちをずらしてやるべきだろう。反町悠介と立見史子が同じ日に殺されたというのは偶然だったのだ。たまたま同じ日になってしまった。これが別々の日だったら刑事たちは交換殺人は考えなかったろう。  交換殺人だったら、麻衣子は中志茂と知り合いでなければならないわけだ。もちろん刑事たちは、二人の関係を調べただろう。なにもつながりは出てくるわけはなかった。  それなのに鏑木は二人を会わせた。会わないと言えばいろいろ疑われる。それが面倒で麻衣子は承知したのだ。  麻衣子は中志茂よりも、鏑木一行という男が何となく無気味だった。もとは刑事だったという。何を考えているかわからない男だ。どこかぼんやりとしているようで、腹の中を見せない男だ。鋭いのか鈍いのかわからない。目だけギラギラさせている刑事たちとは違っていた。射すくめるという。鏑木にはそういうものはなかった。それでいて麻衣子は腹の中を読まれているような気がしたのだ。  鏑木に言われて、仕方なく中志茂に会った。酒をのみ料理を食べてお喋りをした。ただの世間話である。もちろん、お互いに事件のことには触れなかった。  中志茂は絵描きだという。芸術家だ。だが奥の深みのない男だった。女たらしだったけどまだ反町悠介のほうが深みはあったような気がする。  背が高くて二枚目で、と言ってしまえばそれだけの男だった。芸術家というのはもっと深いものを持っているはずなのに、底の浅い男だった。  よく喋った。その喋り方そのものに知性がなかった。どうして絵描きなどになったのだろうと思ったほどだ。油絵を描いていると言った。見なくてもその絵がどんなものかわかるような気がした。いまは挿絵などを描いて生活している。たいした金になるわけではない。彼の体だったらもっと他に職がありそうな気がした。  むしろ、中志茂よりも鏑木のほうが、内面に何かを持っているような気がした。得体の知れないところに興味を持ったのだ。  男としての容姿はもちろん中志茂のほうが上である。だが、男としての魅力は鏑木のほうがずっと上だと思う。第一、中志茂の目つきには気力がなかった。絵描きとしての目つきではない。深みのない目だったのだ。  麻衣子は、二人の男を比べている自分に気付いて苦笑した。  立見史子という女は中志茂を好きになった。それだけで史子という女がわかるような気がする。面食いだったのだ。容姿だけで好きになった。つまり男の内面を考えない女だったのだろう。格好いいだけの男というのは、麻衣子はあまり好きになれなかった。  女は美しいだけでも価値はあるかもしれない。だけど男は格好よくて二枚目だけでは駄目なのだ。内面に輝きみたいなものが欲しい。 「公文先生、電話ですよ」  と女子事務員が声をかけた。税理士の資格を持っているというだけで先生なのだ。受話器を握り、ボタンを押した。 「お電話代りました。公文です」 「ぼくです。わかりませんか」 「申しわけありません。ぼくですとおっしゃられても。どなたでしょうか」 「失礼しました、中志茂です」 「ああ、中志茂さん、先日は失礼しました」  電話で、ぼくです、というような男は嫌いなのだ。わかっていてもわからないようなふりをする。ぼくです、というような男はどこか甘ったれで自信家なのだ。女はいつも自分のことを考えていてくれる、と思い込んでいる。ぼくです、と言ったとき、別の男の名前を言ってやればよかったと思う。 「何かご用ですか」 「ご用はないだろう。麻衣子さんって意外に冷たいんだな」  これも男の甘えなのだろう。 「今日、一仕事終ったので、麻衣子さんと酒でも呑もうか、と思いましてね。出て来ませんか」 「そうね」  と彼女は迷った。忙しいと言ってしまえばそれまでだ。中志茂だっていいところもあるのだ。連れて歩くには格好の男でもある。 「出て来なさいよ。このところわりに暇だって、この間言っていたじゃないですか。だからこうして電話したんです」 「ええ、いいわ」  と答えた。待ち合わせ場所を新宿と決めた。時刻は六時。たのしみにしていますよ、と言って中志茂は電話を切った。  電話を切ったときから、麻衣子は気が重くなった。断わればよかったのにと思う。たいして魅力のない男とつき合うことはない。だけど、と思う。  丸の内北署の刑事は中志茂を尾行しているかもしれない。また山下署の刑事は麻衣子を尾行しているかもしれないのだ。中志茂と麻衣子がデートすれば、両方の刑事たちはどう思うか。  交換殺人なら、二人は決して会わないはずである。それを堂々と会ってみせる。それもまた面白いかもしれない。それもあって麻衣子は中志茂と会う気になった。  両方の捜査本部は容疑者を絞りきれないでいる。反町悠介には多くの女たちがいた。捨てられて恨んでいる女も多かったはずだ。立見史子にも四十人を越す男たちがいた。彼女のアドレス帳の男たちを調べていったってかなりの時間がかかる。  麻衣子は多くの女たちの一人であり、中志茂は多くの男たちの中の一人である。それに二人ともアリバイがある。刑事たちはアリバイのない男と女を調べるだろう。はっきりしたアリバイがある限り容疑者にはならないのだ。  ふと、鏑木の顔を思い浮かべた。中志茂に比べると野性的だ。怖ろしいのは刑事たちではなく鏑木である。刑事にはアリバイは崩されはしない。けれど鏑木には崩されそうな気がする。  六時十五分——。  喫茶店に中志茂は来ていた。麻衣子はいつも約束より十五分遅れることにしている。それが彼女の矜《ほこ》りでもあるのだ。待ち合わせ時間より早く行けば、何か男を待っているようで、自分がみじめになる。 「やあ、やはりきみはきれいだよ」  と言った。その言い方が気に入らない。立見史子よりも? と言ってやりたかったが、それはあとに残しておくことにした。 「この間、会ってから妙にきみのことが気になり出してね。きみからの電話が来るかと思ったが、なかなか来そうもないのでね」  麻衣子は珈琲を頼んだ。 「きみは、ぼくのことが気にならなかったわけだ」 「さあ、どうだったかしら。でも今日、こうして来たんだから、全く気にならなかったわけじゃないでしょう」 「きみは他人《ひと》ごとのように言うんだな」 「あたしは一目惚れなんてないのかもしれないわ。あたしはスロースターターなのよ、きっと」 「そうだと思うね、そうだよきっと。ホッケの太鼓みたいなものだ」 「ホッケのタイコ?」 「だんだんよく鳴るってことだよ」  こんなによく喋る男とは思わなかった。相手によってはよく喋る、相手によってはほとんど無口という人はいる。女だってそうだ。  喫茶店を出ると、酒場に行く。地下酒場である。店の中はいっぱいだった。サラリーマンやOLたちがずらりと並んでいる。七時である。混む時間なのかもしれない。カウンターの隙に席をみつけた。はじめはビールを呑み、そのうちにハイサワーに変えた。 「誰かあたしたちのこと尾行してなかった?」 「さあ、どうして、気付かなかったけど」 「あなたは丸の内北署、あたしは横浜の山下署」  中志茂は一瞬鼻白んだ。 「そんなことどうだっていいじゃない」 「あなた立見史子さんを殺したんでしょう」  彼はあわててあたりを見回した。 「そんな話は止めようよ」 「隣りで呑んでいる人が刑事だったりして」  と麻衣子は笑った。アルコールが回って酔ったらしい。 「あたしたち、交換殺人なのよね、だからこうして一緒にお酒呑んでいる」  中志茂はあわてた。 「ごめんなさいね、あたし酔ったみたい。どう、立見さんってきれいな人だったんでしょう」 「あんな女」  と吐き捨てるように言った。 「あの女は男をオモチャみたいに思っていた。オモチャをいじってこわれたらポイと捨てる。あんな女に惚れたら男は狂うしかない、という女がいるだろう。男は惚れて来るものだと思い込んでいる。男に惚れさせておいて、自分は澄ましているような女、あるいは女のナルシスト。史子というのはそのたぐいの女だ。そういう女だとわかっていれば惚れなければいい。あるいは惚れてはいけない女かもしれないな。そういう女とつき合うときは小指の先でつき合えと言ったのは太宰治だったかな。そうすれば、振られても失うのは小指の先だけですむ。全身で惚れるから捨てられたときに、自殺するより他はなくなる。そういう馬鹿な男もいたんだ」 「あたしもそういう女かもしれないわ」 「ぼくは大丈夫だよ。女には惚れないタイプだから」 「そう、自信たっぷりね」 「男はね、やっぱり女に惚れられたほうがいい。そのほうが自然だよね」 「あたしに惚れろということなの」 「いや、麻衣子さんは別さ。一般論だよ。きみがそうだったら、こんな話はしないさ」  悠介がそういう男だったのだろう。もちろん口では言わなかったが。悠介には女たちが惚れた。悠介に口説《くど》かれると、女はすぐに愛してしまうらしい。愛して相手にされなくなると自殺してしまう。悠介にはそういう魔力みたいなものがあった。  女は肉体関係を持つと駄目になる。その男だけしか見えなくなるのだ。独占しようとする。そして独占できないと知ると絶望的になる。  悠介がそうだった。そして立見史子もそうだったのに違いない。どっちにしろ、惚れたほうが負けなのだ。負けて立ち直ることができればいい。麻衣子は男なんか好きになるまいと思っている。 「どうだい、カシを変えようか」  と中志茂が言った。 「ええ、いいわよ」  と麻衣子は立ち上った。  六章 毒入りカプセル     1  鏑木一行は、朝早く羽田空港に向った。航空券はなかったが、空席はあるだろう、と考えた。九時四五分の熊本行き、日本エア351便である。  すでに五月の連休に入っていた。空席はなかったがキャンセル待ちでどうにか券を手に入れた。熊本に着くのは一一時三五分だ。一時間五十分かかることになる。  熊本空港に着くとすぐに熊本駅に向うつもりだった。寝台特急『はやぶさ』のキップを手に入れるためである。  機内の人となって、ホッと息をつく。安堵《あんど》の息ではなかった。実を言うと一行は飛行機が嫌いなのだ。重い扉が閉められると、これで逃げ出せないなと思う。運を天にまかせるしかないのだ。首を回してみる。乗客たちもスチュワーデスもみんな平気な顔をしている。だがみんな腹の中ではこわがっているんだろうなと思う。  どうせ事故をおこすのなら、一気に死なせてくれ、と思う。どこかの飛行機事故のように、死ぬまでの間三十分もあったんじゃたまらない。  機が離陸する。禁煙のサインライトが消える。あわてて煙草を咥《くわ》え火をつける。飛行機がこわい人もいる。だから、寝台特急なども満席になることが多い。  立見史子もそのたぐいだったのだろう。だから『はやぶさ』にした。航空便で帰れば、殺されずにすんだかもしれない。もっとも機内で農薬をのまされれば、犯人も逃れようはないのだ。  一行は煙草を吸いながら大型の時刻表を開いた。この時刻表だけはショルダーバッグに入れて持って来たのだ。  ページをめくろうとして、靖子のことを思い出した。熊本に行くと言ったら、一緒に行くと言い出した。それをなだめるのに一苦労だったのだ。お仕事の邪魔はしないわ、と言った。邪魔しないつもりでも、一行の気が散ってしまう。それでも仕事ができるほど頭の回転はよくないのだ。  ページをめくって寝台特急の青いページを見る。『はやぶさ』は、熊本に一六時一九分に着いて三五分に発車する。そして立見史子が苦しがって通路に転げ出して来たのが十五分後の十六時五十分ころ。そして死んだのが十七時二十分。死亡時刻よりも、農薬をのんだと思える十六時五十分ころが問題なのだ。  十六時五十分に犯人は史子に農薬をのませた。捜査本部では、そのあと犯人は博多で降りて東京行きの飛行機に乗った、と考えた。しかし、新宿の八時半には四十分ほど足りない、と計算された。  この『はやぶさ』の路線で、最も近い飛行場のある駅は博多だと考えた。たしかに熊本空港の次は博多空港である。これでは間に合わないのだ。四十分ほど足りない。 『はやぶさ』の次の停車駅は一七時一五分着の大牟田である。大牟田駅から熊本空港にもどる手はないのか。熊本空港は熊本駅からバスで五十四分のところにある。大牟田から熊本空港はどうなのか。  地図を見てみた。熊本空港は熊本と大分の間を走る豊肥本線の八つ目か九つ目の駅の近くにある。熊本から大牟田は、鉄道の営業キロは四九キロである。熊本駅から空港までの二倍はかかりそうだ。約二時間と考えよう。  一七時一五分から二時間だとすると一九時すぎである。熊本から東京行きの最終は一八時二五分である。これには乗れない。乗れたとして、羽田に着くのが一九時五〇分、これでは、やはり八時半に新宿に着くのはむつかしい。  やはり中志茂のアリバイは崩れない。けれども一行は史子殺しの犯人は中志茂だと思い込んでいる。  熊本からの東京行最終の前は、日本エア354便、一七時五五分の離陸だ。これに乗れるとすれば、羽田に一九時二五分に着く。八時半までに一時間と五分ある。これならば新宿の『はつもみじ』に八時半に着ける。  だが、日本エア354便にどうして中志茂を乗せるかである。『はやぶさ』の熊本発車が一六時三五分、発車前に、『はやぶさ』を降りて熊本空港に向う。離陸までに一時間二十分ある。充分に間に合うだろう。  と煮つめてくると、『はやぶさ』が熊本を発車してからの十五分が問題となる。この十五分をゼロにすれば、中志茂は八時半に新宿にいられるのだ。 「十五分か」  と呟いてみる。この十五分を何とかして縮められないだろうか。十五分くらいなんとかなる。山下署の捜査本部では、博多からの飛行機を考えた。だからアリバイは完璧だったのだ。考え方を変えて、新宿八時半から逆に考えてみると、熊本駅からの十五分が残る。この十五分を何とかすれば、中志茂のアリバイは崩れる。  この十五分に謎があるのだ。中志茂は熊本駅で降りた。それにはどうすればいいのか。車掌が車内改札したのは発車前だった。車掌が去ったあと中志茂が入って来た。そして農薬を飲ませる。どうやって飲ませるか。缶ジュースか缶コーヒーに入れて。史子がすぐに飲むとは限らない。発車前に飲ませて、中志茂は『はやぶさ』を降りなければならないのだ。  そこにも問題があった。缶コーヒーを史子のそばに置いて、そのまま下車したとする。史子はどこで飲んでもおかしくはない。あるいは東京まで飲まないかもしれない。いや、運よく熊本を発車して十五分後に史子が缶コーヒーを飲んだとする。計画通り中志茂のアリバイは成立する。だが、発車したあと飲んだとすると現場に農薬の入った缶コーヒーがなければならない。博多の鑑識課員が調べたところでは、そのような缶はなかった。  もちろん、史子はその缶を捨てるわけはないが、捨てるところもないのだ。寝台列車の窓はたしか小さく開くようになっている。そこから缶は捨てられるかもしれない。だが、農薬を飲んだ史子にそんな余裕はあるわけはない。  缶コーヒーでなければ何だ。個室寝台である。ドアはロックできる。少し狭いが二人横になれないことはない。一般のB寝台よりも広いはずだ。  史子はこの個室寝台で中志茂と楽しむつもりではなかったのか。そのために個室寝台をとった。この列車にはツインの寝台車はない。列車の中で楽しむ。こんなチャンスはめったにない。列車にコトコトと揺られながらのセックスもまたいいものに違いない。  中志茂がポケットからカプセルを出す。まず自分が飲んでみせる。 「これは精力剤だ」  と言って史子に渡す。彼女は笑いながら、そのカプセルを飲むだろう。そばに缶ウーロン茶か何かあればいい。  カプセルは胃の中で融《と》ける。このカプセルに何か仕掛けをしたらどうだろう。胃の中で十五分経ったら融けるとか。十五分経ってから融けるカプセルがあるのかどうかは知らない。  中志茂はカプセルを史子に飲ませてから熊本駅で降り空港へ向かう。これだったら中志茂のアリバイはなくなる。  薬品カプセルというのは、数秒で融けてしまうものだ。農薬をそのまま入れたら、中志茂は逃げる暇がなくなる。アリバイのためにもカプセルは史子の腹の中で十五分もってもらわなければならないだろう。  十五分後に融けるカプセル。もちろん一行の推測にすぎない。捜査本部にこんなことを言ったら笑われるだろう。そんなカプセルが作れるわけはないと。そういうカプセルが作れることを証明しなければならないのだ。  カプセルの他に何か手があるのか。どっちにしろ、中志茂は十五分を何とかして作り出した。これがミソである。この十五分があったので中志茂のアリバイは成立し、完璧なものになった。安心していられるわけだ。 「とにかく、この十五分を何とかすればいいわけだ」  何となく一つの事件は解決したような気分になった。ふと顔を上げると禁煙ランプがついていた。これから着陸するのだ。     2  熊本空港に降りる。バスに乗らずにタクシーに乗った。中志茂もタクシーに乗ったろうと思ったからである。熊本駅まで五十分かかった。バスとたいして変らないのだ。  熊本駅で調査にかかった。その日の寝台特急『はやぶさ』で帰るつもりだったが、四月二十四日に乗務した車掌が乗るのは明日だと聞いて、一晩熊本に泊ることにした。  まずホテルをキープしておいて、東京の靖子に電話を入れておいた。  一行は、中志茂吉昭、公文麻衣子、そして立見史子、三人の写真は持って来ていた。その三枚の写真を駅員やキヨスクのオバさんに見せて回ることからはじめた。四月二十四日であることを言うのを忘れなかった。  もちろん、山下署からも丸の内北署からも刑事が捜査に来ているはずである。そのあとを追うことになる。  事件から十日ほどが過ぎている。十日前には思い出せなかったことでも、いま思い出すということはあるものだ。また十日前には駅にはいなかったという人もいるだろう。  もちろん、駅構内で働いている人たちは、二十四日の『はやぶさ』で殺人事件があったことは知っている。一行の聞き込みは執拗だった。刑事は型通りの聞き込みをやる。公務員だからだ。その聞き込みも捜査主任の命令通りにだ。  これくらいやれば充分だ、と思える程度にだ。だが、一行のやり方は違っていた。一行の聞き込みは、自分のためなのだ。事件の全体を見ながら調査しなければならない。それも二つの殺人事件が重なっている。それを頭の中でこんがらがらないように考えなければならないのだ。  いまは、二つの捜査本部は、中志茂、公文のアリバイが崩れないところから、視線を他に向けているのだ。この二人を追及しているのは、いまは一行一人だろう。  まず改札係に三枚の写真を見せた。その改札係は立見史子の写真を指さした。だがこの改札口で見たのではなく、地元のテレビで見たのだと言った。もう一人の改札係にも見せた。 「事件の翌日でしたか、東京の刑事さんがみえたんですけどね」  と言った。刑事に聞かれたけれど、答えるものは何もなかったと言った。改札係というのは乗客の顔は見ないものらしい。キップだけを見ている。  一行は、失礼と言って改札口を入ると、駅事務所に入った。そして駅長に会った。そして三枚の写真を見せる。駅長に先に写真を見せておけば、あとの駅員たちも抵抗なく写真を見てくれる。  だが、誰もが、さあ、と言って首を振るだけである。中志茂も公文麻衣子もこの熊本駅に来ているはずである。大勢の人が見ているはずなのに誰も反応を見せない。  改札口を出ると、今度はタクシー乗り場に向った。駅タクシーがズラリと並んで客待ちをしている。そのタクシー運転手たちに中志茂の写真だけを見せた。誰かが熊本駅から空港まで中志茂を乗せたはずなのだ。写真を見せても首を横に振る。  こういう聞き込みに苦労することはよく知っている。しかも一行は一人なのだ。タクシー運転手も乗客の顔をいちいち覚えているものではないのだ。荷物をトランクに入れたとか、何か印象的なことがない限りは、記憶には残らないものらしい。  熊本駅から空港の離陸時刻までには、それほどギリギリだったわけではない。中志茂もそんなにあわててはいなかったろう。そして、特に目立つことはひかえていたのに違いない。  タクシーは客を待って並んでいる。客が並んでいたかどうかはわからない。客に対して顔を見てドアを開くわけではない。客の体だけ見ている。客がタクシーに乗る。客が行き先を言う。振り向いて客の顔をわざわざ見ることはないのだ。  公文麻衣子も『はやぶさ』に乗ったはずなのに駅員たちの反応はなかった。麻衣子はわりに目立つ美人である。特に熊本では、ということになる。だが、誰も麻衣子を見た者はいないのだ。  こいつは少しおかしいな、と思いはじめた。誰かが見ていて自然である。美人を振り向くのは男だけではない。女も振り向く。もちろん駅構内にいた乗客たちは見たのだろうが、そういう目撃者を探す方法はないのだ。地元のテレビ局に頼めばあつかってくれるのか。  容疑者ではあっても、麻衣子や中志茂の写真をテレビに出すことはできない。重要容疑者で警察が手配しているというのでなければである。人権問題になる。  何の収穫もなかった。  立見史子の実家に向った。熊本駅から豊肥本線に乗り五つ目の竜田口で降りる。竜田町である。そこから降りて十分ほど歩く、という。熊本の中心地を横切っている白川を溯《さかのぼ》ることになるのだ。一つ先の駅が武蔵塚である。ここには宮本武蔵の碑があるのだ。  立見家には、史子の母親が一人でいた。史子の父と兄は会社に出ているという。 「史子さんを殺した犯人を調べています」  と言うと上ってくれという。座敷に案内されテーブルの前の座布団に坐った。古くて広い家のようだ。障子を開けるとよく手入れされた庭が見えた。庭にはツツジが咲いていて明るかった。ツツジもいくつも種類があるのだ。花の色も四種ほどあった。  近くを白川が流れているという。いいところなのだ。東京から帰ってくるとホッとするのに違いない。  事件の翌日、二十五日の夕方、丸の内北署の刑事が来たという。史子の遺体は二十五日の朝、東京駅に着いている。その日のうちにこの家に来たというから早い動きだ。その日北署から連絡があり、父親と兄と二人で身元確認と遺体引き取りのため、東京に発ったあとだったという。だから、その日も家にいたのは母親一人だった。 「中志茂吉昭という男を知りませんか」  母親はお茶を淹《い》れて来た。お茶うけに熊本の銘菓『加勢以多《かせいた》』が出た。むかしは将軍家への献上品だったという。リンゴの一種のアルメロの実をゼリー状にした菓子である。茶人であった細川|忠興《ただおき》が愛用したという。 「はじめてお聞きする名前です」  と言った。刑事がここへ来たときには、まだ中志茂の名前は上っていなかったのだろう。 「背の高い二枚目です」  母親はうつむいた。 「史子は、男の方たちと遊んでいたと聞きました。申しわけないことです。そのように育てたつもりはありませんでしたけど、男の恨みで死んだのだと、お父さんは言っていました。自業自得だと」 「あるいは史子さんは美しすぎたのかもしれません。それで男たちが放っておかなかったんです」 「でも、史子さえしっかりしていれば。お父さんと高史《たかふみ》は、東京の警察で史子のことをいろいろ聞いたのでしょうが、わたしには話しません」  ふと思いついて、仏壇の史子にお焼香をした。忘れていたのだ。 「東京は人の住むところじゃない、と言う人もいます。だけど、若い人にはそんな東京がいいのでしょうね。刺激があって、忙しくぐるぐる回っている、目が回りそうなんですね」  史子は多くの男たちとつき合っていた。それに青山のマンションに住んでいた。あるいはパトロンみたいな男もいたのだろう。史子がつき合っていたのは金持ちの男ばかりではない。中志茂のような貧乏絵描きもいたのだから。その辺のことを彼女は親にも兄にも全く喋っていなかったようだ。  だが、四月二十四日、史子は中志茂と一緒だったはずなのだ。彼は東京にいたようなことを言っているが、その前の日からか、中志茂は熊本に来ているはずなのだ。 「二十三日か二十四日か、史子さんに電話が掛かって来たようなことは?」 「さあ、掛かって来たのかもしれません。どこかに電話を掛けていたと思います」 「熊本においでになる方で、史子さんと親しかったような人は、おられませんか」  母親は史子の高校のころのアルバムを持って来た。母親は一人一人を指さした。五人いた。その五人の名前と住所をひかえた。そして電話を借りた。  二人目に、二十四日、史子が男と歩いているのを見たという人がいた。酒井|則子《のりこ》という高校の同級生だった。嘉島町だった。嘉島町はずっと南のほうである。  一行は、母親に礼を言い立見家を出た。出るときに父親や長男がいるときにもう一度来て欲しいと言った。  タクシーを拾った。嘉島町まではかなりの距離がある。刑事はタクシーを使えない。また熊本駅までもどり、そしてバスを使うことになる。タクシーを使えるのが有難い。  だが、考えてみるとおかしい。一行は立見史子殺しの調査を頼まれたわけではないのだ。調査費を出してくれたのは反町悠介の父親なのだ。  本来ならば、悠介殺しの容疑者である公文麻衣子を調べなければならないはずだった。だが、とにかく中志茂のほうを何とかしたかったのだ。  手帳を見てみると、麻衣子の姉の住所は嘉島町になっている。すると酒井則子の家の近くかもしれない。  タクシーは則子の家の前に止まった。則子の家は薬局で、則子は薬剤師だった。前もって電話を入れておいたので、余計な説明は必要なかった。則子は薬局の中にいた。 「さっそくですが」  と言って中志茂の写真を出した。 「ええ、この人です。史子が一緒に歩いていたのは、背の高い二枚目でした。史子とはしばらく会っていないので声をかけようと思ったんですけど、あたしのほうが遠慮したんです。高校のころから史子は美人だったけど、一段ときれいになって」 「たしかに二十四日でしたか」 「ええ、あの日のことはよく覚えています。史子のことテレビや新聞でも見ましたから」  やっと中志茂が捕まった。おそらく中志茂が史子を殺したのだ。推測だけではなくなった。証拠が一つ出て来たのだ。あとは何だ? 農薬入りのカプセルか。カプセルにどのような仕掛けをしたのか。  公文麻衣子の姉は結婚して池田麻美となっている。池田麻美のことを則子に聞いてみたが、知らないと言う。住所を見せると、則子は地図を書いてくれて、このあたりだ、と言った。     3  二つの事件をかかえていると、頭のほうがこんがらがってくる。頭はあまりいいほうではないのだ。ひとまず中志茂のことは忘れようと思った。  公文麻衣子も、熊本駅から『はやぶさ』に乗ったはずである。『はやぶさ』に乗って東京まで行ったと言っている。それがホントなら麻衣子には反町悠介は殺せないことになる。だが一行は、麻衣子が殺したと思っている。彼女のアリバイは、中志茂よりも破りにくいだろう。彼女は山下公園で悠介を殺して、また『はやぶさ』にもどらなければならないのだ。それも『はやぶさ』が広島に着く前に車内にいなければならない。  麻衣子が『はやぶさ』に乗っていたという証人が静岡か名古屋で見たと言うのなら、何とかなりそうな気がする。翌朝、新横浜か、いや東京からでもいい。新幹線に乗れば静岡か名古屋あたりで『はやぶさ』に乗れるかもしれないという気がする。だが広島の手前では不可能なのだ。いや、不可能に思える。だから、山下署は容疑者から外した。そして交換殺人を考えた。いかにも安易である。  麻衣子のアリバイの証人は高瀬康夫、四十五歳である。一行はまだ会っていないが、山下署の刑事は会って証言をとっている。高瀬が偽証する必要はないのだ。  これから改めて麻衣子のアリバイを考えてみなければならない。  池田麻美の家はそれほど探し回らなくてもわかった。社宅だった。麻美は結婚して夫が熊本支社に転勤になったので一緒について来たのだ。四つになる女の子がいた。  一行が名刺を出すと麻美は眉を寄せた。 「公文麻衣子さんのことで、少しお聞きしたいのですけど」 「麻衣子が何をしたというんですか」  とはじめから喧嘩腰である。 「麻衣子さんに殺人の疑いがかかっているんです」 「冗談言わないで下さい。麻衣子が人殺しをしたとおっしゃるんですか」 「ですから、その疑いを晴らさなければ、と思いまして」 「変なこと言わないで下さい。麻衣子はまだ結婚前ですよ」 「麻衣子さんは、四月二十三日に何の用でこちらに来られたんですか」 「失礼です。お帰り下さい」  そっぽを向いた。 「二十四日に、何時ごろこの家を出られたのでしょうか」 「そんなこと答えられません」 「そうですか、すると捜査本部の刑事に来てもらうしかないですね」 「お答えすることがあれば、その刑事さんにお話します」  山下署の刑事は熊本に来たはずだ。麻衣子が容疑者に上った時点で。 「山下署の刑事がこちらにうかがったと思うんですけど」 「お帰りにならないと警察を呼びますよ」  取りつく島がない、とはこのことだ。 「それでは警察を呼んでもらいましょうか。警察同士で話はついているはずですからね」  麻美は黙って奥へ引っ込んでしまった。これでは帰るより仕方がない。池田家を出た。  本命でないほうの事件はカタがつきそうだが、本命はどうにもならないようだ。熊本署は一応池田家に行って事情は聞いているはずである。  タクシーを拾って熊本署に向った。熊本署は熊本城の東側にある。熊本署に入り、『はやぶさ』殺人事件のことで聞きたい、と言っても話がなかなか通じない。もちろん熊本署には関係ない事件だからだ。かなり経ってから津川という刑事が出て来た。 「わたしが山下署から連絡を受けて、公文麻衣子のことを調べたのですが」 「あなたに会えてよかった」 「鏑木さんはどういう方ですか。一般の人には話せないことになっとりますんで」 「では、山下署の的場刑事か来須刑事に聞いてみて下さい」 「しばらく待って下さいよ」  と言って奥に入っていく。それからまた待たされた。三十分ほどもかかったような気がする。 「鏑木さんは、もと刑事ですか。公文麻衣子のことですが、何も出ませんでしたよ。わたしが池田さんの家に行きましたが」 「公文麻衣子は『はやぶさ』に乗ったと言っています」 「そのようですな」 「池田の家を、二十四日の日ですが、何時ごろ出たのですかね」 「さあ、『はやぶさ』が発車するのが、たしか」 「一六時三五分です」 「一六時と言ったら四時ですな。三時ころには池田の家を出たんでしょうな」 「たしかに三時ですか」 「それが、よくわからんのだそうです。その日、池田麻美は子供と幼稚園に行っていましてね、三時すぎに帰って来たときには、家にはいなかったそうです。麻衣子は熊本発一六時三五分の『はやぶさ』に乗ったわけですから、三時ごろ出かけたと判断したんですが、山下署にもそのように報告したと思いますよ。他に何も変ったことはありませんでしたのでね。公文はもう容疑から外れたんじゃないですか」  津川刑事に礼を言って熊本署を出た。食事をすまして予約しておいた熊本センターホテルに入った。部屋に入ってバスを使う。今日はいささか疲れた。疲れたときには酒を呑むに限る。  部屋を出て、ホテルにあるバアに行った。カウンターに坐ってウイスキーの水割りをたのむ。水割りを呑みながら、公文麻衣子が池田の家を出た時刻にこだわっている自分に気付いた。それが何なのか一行自身にもわかっていない。早くても遅くても『はやぶさ』に乗れればいいのだ。時刻にこだわっているのはそこに何かがあるからだ。  麻衣子のアリバイを改めてもう一度考えてみる必要があった。何度も考えているのでその時刻は頭の中に入っている。 『はやぶさ』は一六時三五分に熊本駅を出る。そして二二時三〇分ころ、麻衣子は『はやぶさ』のロビーカーで高瀬康夫という男に話しかけられている。その間六時間だ。六時間で反町悠介を山下公園で殺してもどって来なければならない。  悠介の死亡は六時二十分。この時刻には『はやぶさ』は博多を出たころだ。博多を出たころ、麻衣子は山下公園にいなければならない。一見不可能に思える。だが、麻衣子にはそれができたのだ。  麻衣子は熊本駅からほんとに『はやぶさ』に乗ったのか。『はやぶさ』には乗らなければならない。キップに車掌がハサミを入れるだけならなんとか誤魔化しはきく。だが車掌は乗客表にチェックしていく。チェックがないと空席ということになるのだ。空席ならば途中の駅で他の客が乗って来る可能性もある。  麻衣子は必ず車掌の車内改札を受けなければならないことになる。広島の手前で乗り込むにしてもだ。  中志茂のように、車内改札を受けて熊本駅で降りることはできる。そこから熊本空港に行き、東京行きの飛行機に乗る。ここまでは山下署でも考えたことだ。  だが、熊本空港発、日本エア354便は一七時五五分である。つまり五時五十五分、六時まで五分しかない。悠介の死亡時刻の六時二十分までに二十五分しかない。これで山下公園まで行けるわけはない。  ここで捜査本部は諦めた。不可能なのだ。354便の前は、全日空646便の一六時三五分。これに乗れれば、羽田一八時○○分着、これだと死亡時刻の六時二十分までに二十分しかない。羽田から山下公園までは、車をとばしても三十分はかかる。  一六時三五分と言えば、『はやぶさ』が熊本を発車する時刻である。これでは、まず無理である。  そして悠介の死亡時刻は六時二十分、だが、拳銃で射たれてすぐに死んだわけではない。射たれてから死ぬまで時間があったはずである。解剖医は射たれて死ぬまで十分くらいはあったろう、と言っている。こうなれば、完全に不可能と考えるしかない。  悠介は射たれたあとにコートを着ている。それに煙草も吸っている。助けを求めれば助かった可能性はある。だが悠介は助けを求めなかった。その辺の心理はよくわからない。あるいは自分が死ぬとは思わなかったのか、あるいは逆にすぐ死ぬのだと思って助けを求めなかったのか。だが射たれて死ぬまでかなりの時間がかかった。  解剖医は十分くらいと言ったが、それが二十分かもしれないし、三十分かもしれない。その辺は解剖医学でもはっきりとはわからないらしい。しかも小型拳銃である。殺傷力は弱い。解剖医学でわかるのは死亡時刻である。  射たれて死ぬまで個人差があるだろう。射たれて三十分生きていたとして、悠介はその間何を考えていたのだろう。  麻衣子が熊本から『はやぶさ』に乗ったとすれば、悠介を殺すことはできない。だから山下署では交換殺人を考えた。  事件のことを断片的に考えてみる。だが、ラチがあかない。考え方を変えなければならないのだが、どう考えを変えればいいのか。不可能だから麻衣子は犯人ではない、と考えるのは簡単だ。だが、一行は、麻衣子が犯人だと思い込んでいる。どうあっても壁をぶち破りたいのだ。  バーテンが、ドアのほうを見た。その目線を追って振り向くと、そこに靖子が立っていた。一行はエッ? と思った。 「あたし、来ちゃった」  と照れたように笑った。     4  東京にいるはずの靖子が急に現われてびっくりしたのだ。一行がホテルを予約して東京の靖子に電話したのは正午を少し過ぎたころだった。それから仕度しても飛行機に乗ればすぐに熊本に来れるのだ。 「大丈夫なのか」 「なにが」  という。もちろん靖子だって子供じゃないのだ。暇をもて余している靖子だから、思い立てばすぐに旅に出られるのだ。 「お邪魔だった?」 「そういうわけではないけど」 「一行さん、女の人と一緒じゃないか、と思ったりして」  やきもちをやいているのか。もっと男に対して自信のある女かと思っていたのに。  靖子は一行の隣りに坐ってブランデーをたのんだ。シングルの部屋をとったのだという。あるいは行動力はある女なのかもしれない。一行は靖子にすっぽかされて、やけ酒をのみ喧嘩するほどに嫉妬した。それが嘘みたいだ。 「ねえ、あたし酔ってもいい?」 「いいよ、いくらでも」 「でも、一行さん、酔った女って嫌いでしょう」 「女は可愛いくらいに酔うものだ」 「忘れるところだった。父は警備会社のおえらいさんを知っているの。その会社に一行さんをどうかって。そうすれば生活も安定するし」 「考えさせてもらうよ」  いまは定職もなく便利屋をやっている。ごろつきみたいなものだ。 「靖子もそのほうがいいわけだ」 「さあ、便利屋の一行さんもいやじゃないけど。お仕事のほう進んでいるの」 「なかなか進まないね」 「昨日、テレビのニュースでやっていた。四十二歳の映画監督が女優さんの部屋で首吊り自殺したんだって。監督には奥さんも子供もいるのよ。それで女優さんに別れ話を持ち出され、それを悲観して自殺したんだって。恋というのは病気なのね。他の人にはわからないことなのよ。簡単に死ねるものらしいわね」  そういう事件があったのを一行は知らなかった。 「その女優のマンションで首を吊るなんて、いやがらせかしら。他のところで自殺すれば騒ぎも大きくならなくてすんだのに。すぐに二人の関係が世間に知れてしまうじゃないの」  立見史子にもそういう男がいたのかもしれない。その復讐のために殺されたのかもしれない。反町悠介だって同じだ。女を次々にものにした。次の女を求めるには前の女を捨てなければならない。捨てるという意識はなくても、捨てられた女はそう思う。悠介とのことをいい思い出にするという女もいたが、考えてみれば、そういう女たちばかりではなかったはずだ。恨んだ女もいただろう。捨てられて悲観して自殺したような女もいたかもしれない。麻衣子が、悠介に捨てられて自殺した女の姉か妹だったら、と考えてみる。 「今日は疲れたよ」 「じゃ、お部屋に行きましょう」  とうれしそうに言う。そういう靖子が可愛くもあった。こんな靖子でも、他の男を好きになったら、一行に別れ話を持ち出すかもしれない。そうなったらたまんないだろうなと思う。男は女に振られて自殺することもあるのだ。  一行は部屋にもどった。靖子の部屋は近くのようだった。さきほどバスを使ったが、着換えるのに、もう一度シャワーを浴びた。そして素肌に浴衣を着る。  ベッドのそばに小さなテーブルと椅子がある。そこに坐って煙草に火をつける。「四十男が女のために自殺するのか。女房子供はどうなるんだろうな。一生の傷になって残る。女優のほうだっていやだろう。関係のあった男に自分の部屋で自殺されては」  ドアがノックされた。ドアを開けると靖子が浴衣姿で入って来た。彼女のほうから抱きついて来て唇を押しつけて来た。浴衣の中でペニスが勃起した。それが靖子にもわかったのだろう。手でそのペニスを握った。そして、くくっ、と笑った。体をずり下げて膝立ちになると、その尖端に唇を押しつけて来た。そして尖端をなめらかにする。舌がしきりに這っていた。それからペニスを呑み込むのだ。根元まで呑み込むと尖端が咽につっかえた。それからゆっくりと口から離して、息を吹きかけ、また咥えてしゃぶりはじめる。  一行は自分のペニスを見ていた。監督と女優の間にも、仲のいいときには、こういうこともあったのだろう、と思う。  ベッドに上る。靖子が明りを小さくする。浴衣の下は素肌だった。浴衣の衿を押し拡げる。形のいい乳房でまだ弾力は充分にあった。その乳房を掴んで揉み上げる。乳首ははじめから勃起していた。首筋のあたりが白い。粉の白さや象牙の白さではない。半透明の白さである。烏賊《いか》の白さと言ったらいいのか。釣り上げたばかりの烏賊は透明である。いか刺にしてしばらく経つと透明から白く変化していく。その途中の白さだろう。まだどこかに透明感が残っている。そんな白さなのだ。  一行は首すじに吸いついた。強く吸えば内出血する。キスマークだ。それほどには吸わなかった。浴衣の腰紐を解く。そして前を拡げる。素肌があらわになった。肌の白さもさりながら、体の曲線もみごとだった。体は薄くはないのだ。充分に量感がある。  乳首を咥えた。靖子が呻き声をあげて腰をくねらせる。その表情が何ともいえず魅力的だ。手で肌を撫でまわす。ウエストから腰への線が何ともいえない。もちろん腿にも充分に肉がついていた。女の体というのは美しいものだ。男の目をたのしませる。一行の頭の中はからっぽだった。  この靖子の体に夢中なのだ。夢中になれる素晴しい体をしている。乳首をしゃぶりながら、肌を撫でる。恥丘に黒い茂りがある。その茂りは拡がらず、まとまって生えていた。肌が白いから黒々と見える。  手をはざまに滑り込ませる。彼女は抵抗しなかった。はざまはふっくらと、つるんとしていた。そのはざまを上下に撫でる。 「好き!」  と靖子が低い声で言った。  のびやかな体つきである。頭の中はからっぽといいながら思いはある。別れた亭主というのは知らない。だがその男は靖子と別れるのはつらかったに違いない。こんな体つきの女はめったにいない。諦めるのにはずいぶん時間がかかろうと思う。諦められなければ事件になる。  自殺した映画監督は知らない。だがその相手の女優は知っている。小柄な可愛い女だ。監督はその女優に別れ話を持ちかけられ、絶望した。そういう絶望の前には、何も見えないまっ暗闇だ。女房子供も見えない。監督としての仕事もどうでもいい。なぜこれほどに惚れ込んでしまったのか。  もちろん、本人にもわからないことだ。全身全霊で惚れ込んでしまった。だから自殺するより方法がなくなる。この女を失うくらいだったら、死んだほうがましだということになる。自分よりも大事な女なのだ。その女の気持が自分から離れてしまった。狂うほどに苦しかったろう。その苦しさに耐えきれず死を選んでしまう。  それも女優のマンションで。恨みもあったのだろう。  一行は、靖子に他の男がいると妄想してやけ酒をのみチンピラを叩きのめした。いまだって靖子に他の男がいないとは言えないのだ。彼女はいまは自由である。その日のうちに熊本にとんで来られるだけの自由がある。  自殺までは考えなかったが、妄想は苦しかった。その延長線上には、やはり死があるのかもしれない。  公文麻衣子は、約束して約束の時間に十五分だけ遅れて来た。いつもそのようだ。もちろん、女としての矜《ほこ》りもあるのだろうが、自分からは男を好きになるまい、という意識があるのだ。好きになったほうが、惚れたほうが負けなのだ。  おそらく反町悠介は麻衣子に惚れたのではなかろうか、と思う。女と片手間に遊んで来た悠介も、麻衣子にだけは逆だった。遅れて来るのが麻衣子のテクニックとすれば、そのテクニックに嵌《はま》り込んでしまったのだ。  悠介は自殺かもしれないと思う。拳銃を射ったのは麻衣子かもしれない。だがそのあとの動きは自殺だろう。助けを求めれば助かった。助かるだろうと思いながら助けを求めなかった。解剖医が言う十分は三十分だったのかもしれない。拳銃で射たれた。そのときに悠介は絶望した。だから手に持っていたコートを着た。そして海のそばに立った。その間麻衣子のことだけを考えた。自分が死ぬことを望んだ。  はざまを上下に撫で、そして指を折った。指はクレバスの中につるんと滑り込んだ。そこは熱く潤んでいた。潤みを指に絡みつかせながら、クレバスをなぞる。指先が肉の芽に触れる。彼女は、うっ、と声をあげ腰をひねる。 「ねえ、ちょうだい」  と靖子が言った。一行は体を起す。女の膝は折れ立ち、そして開く。股間に腰を割り込ませる。眼下に暗いクレバスがある。そこまでは明りは届かない。そこに尖端を押しつけた。尖端だけがつるんと滑り込んだ。彼女がアッ、と声をあげる。腰に力を加えるとペニスは滑り込んでいく。根元まで達したとき、靖子は全身でしがみつき、体をゆすって声をあげた。  ペニスを包み込んだ襞《ひだ》がしきりにうねっていた。腰が回る。そしてしゃくり上げる。いくっ、と叫んだ。体がこきざみに震え出す。     5  ホテルを出ると、まず熊本駅に向った。今日の『はやぶさ』のキップは買ってある。靖子のキップを買わなければならない。窓口に行くと、向い合わせの寝台券を出してくれた。別々の離れた寝台でなくてよかった。  一行は何気なく改札口を見た。昨日の係員とは違っていた。それで歩み寄って話しかけた。駅員はまず、そばに立っている靖子を見て、それから一行を見た。昨日は駅事務所にもいなかった男だ。  三枚の写真を見せた。駅員は立見史子と中志茂の写真を見て言った。 「殺人事件のあった日だからよく覚えています。この女の人と男の人はこの改札口を入られ『はやぶさ』に乗られましたよ。美人だったし、相手の人もいい男でしたから。ぼくは人の顔に興味があるんです。この改札口を出る人、入る人、いろいろとありますからね。この男の人は『はやぶさ』が発車する前にもどって来られ、この改札口を出ていかれました」 「キップは?」 「入場券でした」 「そのときの男の様子は?」 「何か興奮しておられるようでした。そしてタクシー乗り場に走っていかれたと思います」 「そのことを誰かに話しましたか」 「いいえ、誰にも聞かれませんでしたから。あなたがはじめてです」 「刑事は来なかったんですか」 「みえたんでしょうが、ぼくは非番だったのでしょう」  たしかにこの駅員は昨日はいなかったのだ。駅員の名前を聞いてメモした。 「お連れの方はおきれいですね」 「この女もきれいだったんじゃないですか」  と立見史子の写真を見せて言った。 「ええ、きれいでしたよ。でもこの人を見たのははじめてではありませんでした。以前に何度か見ています。熊本の人でしょう」  と言った。駅員に礼を言ってそこを離れた。 「どこへ行きたい?」 「水前寺公園」  と靖子は言った。水前寺まではバスで行くようだ。駅からバスで三十分。かなりの距離だ。二人はタクシーに乗った。  水前寺は庭園のようになっていて、水前寺|成趣園《じようしゆえん》という。 「もう少し時間があれば、あちこち行けるんだけど」 「いいのよ。あたし、一行さんのそばにいられるだけで」  駅員は、公文麻衣子には興味を示さなかった。彼女も史子に劣らないだけの美人だのだが。麻衣子も『はやぶさ』に乗っている。史子を見たのなら、麻衣子を見てもいいはずだ。これはどういうことなのだ。その駅員も麻衣子は見逃したのか。 「何考えてるの」 「事件のこと」 「あら、ごめんなさい。一行さんがお仕事だってこと忘れていた。あたしが熊本に来たの、ご迷惑だった?」 「そんなことない。うれしかったよ」 「だったらいいけど、あたしって我ままなのね。だから秀夫さんともうまくいかなかったのね」  秀夫というのは、別れた亭主のことだ。一行は秀夫という男に興味があった。どんな男だろうと。 「あたしは、秀夫のような男は駄目なの。ぐんぐん引っぱっていってくれる男じゃないと」  引っぱっていく男と引っぱられたがる男といる。秀夫は後者だったのだろう。それも相手によりけりだ。いつもは女を引っぱっていく悠介も、麻衣子にだけは引っぱられたがったのかもしれない。強いほうが引っぱり、弱いほうが引っぱられる。男と女は綱引きみたいなものだ。靖子はいま一行に引っぱられたがっている。彼女は秀夫を引っぱっていくのがいやになったのだろう。  水前寺公園の前でタクシーを降りた。門を入ると青葉がいっぱいだった。目に青葉の季節である。  ここは寛永年間(一六三五年ころ、家光の時代)、細川忠利が作った寺のあとである。庭は、東海道五十三次を模《かたど》った回遊式庭園になっている。阿蘇の伏流が湧き出ている泉水がある。  明治二十九年から三十三年まで、夏目漱石は熊本五高で教鞭をとっていた。いまの熊本大学には漱石の碑がある。その漱石もこの水前寺にはよく遊びに来たようだ。その漱石の句に、   湧くからに流るるからに春の水  湧くのは伏流水である。  池の岸辺に『古今伝授《こきんでんじゆ》の間《ま》』という建物がある。忠利の祖父細川幽斎が、京にあって後陽成天皇に頼まれて、京都桂離宮で、皇弟の智仁《ともひと》親王に古今集を教えた。それが古今伝授の間である。  この伝授の間は明治初年に建物をそのまま熊本に移した。それがいまある『古今伝授の間』である。その伝授の間に坐って見る成趣園が一番美しいという。  この伝授の間には一般人も入れる。お茶がいただけるのだ。銘菓望月が出て、四百円。そこに坐って靖子は、 「きれいだわ」  と言った。もっとも一行には、風景をたのしむ余裕はなかった。出された抹茶をのんだ。美しい眺めは美しいと思わなければならないのだ。池の景色を見た。美しいのだろうと思う。 「来てよかったわ」  と靖子が言った。  ぼんやり池を見ていた。見ていたのではない、顔を向けているだけだったのだ。公園内をぶらぶら歩いて時を過した。靖子もあとはどこへ行こうとは言わなかった。  四時に熊本駅に着いた。四時十分ころに改札がはじまった。昼間の改札係が靖子を見て一行に頭を下げた。席は最後尾の七号車だった。その七号車のあとに西鹿児島から来た六輛が連結される。だからほぼ中央の車輛になる。  八号車が食堂車で九号車がロビーカーになる。たしかに発車するかなり前に車掌が車内改札に来た。 「二十四日のことで、少しお聞きしたいことがあるんですが」 「仕事がすんだらうかがいますので」  と言う。席にいなければ食堂車かロビーカーにいるから、と言っておいた。向い合った席に坐る。二段の寝台車である。上段の客がいれば同じシートに坐ることになる。寝台になるまでは座席なのだ。もっとも列車は空いていて上段の客はいなかった。  車内改札をすませてからも、かなりの時間停まったままだった。立見史子も中志茂も早くから列車に乗っていたのだろう。中志茂は入場券で乗っていたのか。あるいは寝台券も買っていたのか。発車前に史子に農薬をのませて列車を降りた。改札係は中志茂を覚えていた。入場券だったという。  捜査本部では、史子に農薬をのませ、博多で降りたと考えた。だからアリバイが成立したのだ。中志茂のアリバイは崩れた。だが、どうやって農薬をのませたかが残る。発車後十五分で史子は苦しみ出したのだ。だから、刑事たちは十五分後のことしか考えられなかった。カプセルに細工したのか。そんな細工が果してできるのか。その問題だけが残った。カプセルに細工したとすれば、簡単なトリックだったことになる。  列車が動き出した。二人は荷物をシートに置き、カーテンを閉めた。するとカーテンの中は乗客のものとなる。誰でも勝手にカーテンを開けることはできないのだ。  カーテンを閉めて列車を降りれば、東京駅まで人が乗っていなくてもそのままだ。もちろん、その席が車掌によってチェックされていればのことだ。チェックされていないでカーテンが閉っていれば、車掌がカーテンを開けることができる。  そういう意味でも、公文麻衣子は車内改札を受けていなければならない。熊本で車内改札を受けてから降りても、六時二十分に山下公園に立つことはできない。ほとんど完璧なアリバイである。  だが、一行は諦めはしなかった。麻衣子を犯人だと思い込んでいる。どこかに穴があるはずなのだ。  一行と靖子は食堂車に入った。まだ食事には早すぎた。それでビールをたのむ。走り去る車窓風景を眺めビールをのむ。 「自殺した映画監督」 「えっ、ええ」 「恋人の女優の部屋で自殺するなんて、ひどい男だな」 「あたしは、その監督さん、可哀相だと思う」 「どうして」 「だって、自殺するほどに苦しんだわけでしょう」 「苦しむのは勝手だと思うけどな。むしろ、女優のほうが可哀相だよ」 「でも、監督が自殺するほど苦しんでいるとは思っていなかったんじゃないかしら。だから、女優のほうは別れたと言ってもたいして苦しんでいないはずよ」  女は女に冷たいという。靖子もそのたぐいのようだ。  食堂車に人がふえて来たので、隣りのロビーカーに移った。ソファが並んでいて、リクライニングシートもある。麻衣子は広島でここにいたのだ。  博多をすぎてから車掌がやって来たが、たいしたことは聞けなかった。  七章 二つの自殺     1 「公文先生、お電話です」  と女子事務員に声をかけられ、麻衣子は受話器を把《と》りボタンを押した。 「はい、公文ですけど」 「中志茂です。会いたいんですが」  麻衣子はしばらく黙った。何かを考えるためではなかった。相手を焦《じ》らせるという意識もない。 「ええ、いいわ」  と言った。 「それじゃ、六時にこの前のところで」  と言って彼は電話を切った。受話器をフックにもどした。帳面の数字が面倒になった。ペンを帳面の上に置く。  麻衣子は中志茂を好きだというのではなかったが、嫌いというのでもなかった。  三日前会ったときには、酒をのんで酔っぱらい、そして誘われるままにホテルに行った。たいした抵抗もなかった。  彼はけんめいにサービスした。もちろん、二十八歳の、男を知った体である。感じないわけはない。三度ほどオルガスムスに達した。それで中志茂は麻衣子が自分の女になったと思ったのか。  けれど、彼女は中志茂にあまり魅力は感じなかった。底の浅い男なのだ。男というのはみんな見えてしまうと面白くない。女だって謎のある女ほど魅力があるという。  中志茂は自分のことをペラペラと喋る。一時間も話を聞いていると、中志茂のすべてがわかったような気がする。腹の底が見えてしまうのだ。何も隠しておけない性格なのだろう。  麻衣子は自分のことは何も語らなかった。隠しておきたい、知られるのがいやだということではない。自分をさらしてしまうのが好きではなかったのだ。 「ぼくは高校のころバスケットをやっていた。全国大会にも出たんだけどね、ぼくはそのころ、役者になろうか小説家になろうか絵描きになろうかと迷っていた。結局は絵描きになったけどね」  絵描きも小説家も無理だろう。彼にはコンプレックスがなさすぎた。麻衣子は役者が一番よかったのではないかと思った。もっとも頭が悪くても役者になれるということではない。容姿からして役者になれる条件を持っていたのだ。いま売れっこのタレントや男優よりもずっと条件はいいはずだ。だが、男としての魅力には欠けていた。何か男としての鋭さみたいなものがない。目つきにも力がなかった。絵描きでもいいものを描くのなら目つきが違っていなければならない。絵のために命懸けになっているところがないのだ。  この中志茂よりも、ごろつき探偵の鏑木のほうが、ずっと男としての臭いを持っていた。もと刑事としての目つきもあるのだろうが、どこかに野性味があった。もちろん容姿の点では中志茂よりも数段落ちる。だが、男としての気迫があった。  鏑木に口説かれたら、どうなるだろうと思う。その前に、鏑木は自分のアリバイを崩してしまうだろう。反町悠介を殺すに当っては、もちろんそれだけの覚悟はしていた。覚悟がなくては人殺しなんてできやしない。  鏑木が、中志茂に会えと言った。捜査本部は中志茂との交換殺人を考えている。だから、中志茂にも会っておいたほうがいい。そうかしらと麻衣子は思った。全く知らない男だ。 『はやぶさ』の殺人事件も知らなかったのだから。会ったのはいいが中志茂が口説いて来た。そしてその口説きに乗ったのだ。  もしかしたら鏑木の罠に嵌《はま》ったのかもしれない、と思い出していた。この男にはわけのわからないところがあったのだ。麻衣子がこれまでに知らないタイプの男だった。だから魅力があったのかもしれない。  反町悠介も魅力のあった男かもしれない。けれど、麻衣子ははじめから男としては見ていなかった。彼女のほうから悠介に近づいていった。もちろん悠介は口説いて来た。その口説きに乗ったように見せかけた。彼のマンションに行き抱かれた。  そのあと悠介との約束は何度も破った。その度に悠介は麻衣子にのめり込んで来たのだ。男と一緒に歩いているところを悠介に見せつけたり、悠介がよく行くパブに男を連れて行った。その男は大学のころの友人だった。わざとその男を誘い出したのだ。もちろん、悠介には、ただのお友だちよ、と言った。ただのお友だちでも悠介はそうは思わない。 「ぼくは、麻衣子に出会うために、多くの女たちと遊んで来たような気がする」  と言った。あるいはその辺が本音だったのか、それとも口先だけだったのか。  麻衣子の妹麻里子が悠介に遊ばれて自殺したのだ。麻里子の姓は公文ではなかった。母は父と離婚した。そのために高田姓にもどっていた。麻衣子は父の姓をそのまま名乗っていた。  警察でも本気になって捜査すれば麻里子との関係はわかったはずである。だが、まだ刑事が来ないところを見ると、そのことに気付いていないのだ。  麻里子は、そのころ大学生だった。渋谷で仲間たちと遊んでいるところを悠介に声をかけられ口説かれた。女子大生を口説くのは悠介には朝めし前のことだったのに違いない。  悠介はいいところの坊ちゃんである。それに容姿もいい、二枚目だ。麻里子が誘いに乗ったとしてもおかしくはない。女には馴れている男でもある。  青山のマンションに連れて行かれ、肉体関係を持つ。とたんに麻里子は悠介に夢中になる。麻里子には男に対しての免疫がなかったのだ。思い込んだら命懸けというやつだった。ところが、麻里子は悠介には他に女がいることを知った。麻衣子はその相談を受けた。 「そんな男忘れてしまいなさい。どうせ遊び人よ」  と言ったくらいでは効果がない。もちろん麻里子の骨身に悠介は染み込んでしまっているのだ。麻衣子はどうしてやることもできなかった。すでに病人である。俗に言う医者でも治らない病気なのだ。あるいは精神科に連れて行っていたら、死ななくてもすんだのかもしれない。  ある夜、道を歩いていて車にはねられて死んだ。だから事故死ということになった。自殺だったのだ。麻里子の日記には連綿と悠介のことが書いてあった。  だが、悠介は自殺だとは思わなかった。ただの事故死ですませたのだろう。全く痛痒を感じていなかった。そのことに麻衣子は腹を立てたのだ。復讐しようと思った。何もしないですますわけにはいかなかったのだ。  悠介に抱かれたあと、聞いてみた。 「むかし、あなたの女で麻里子って子がいたでしょう」 「マリコって女は何人かいたな」  悠介は麻里子のことを忘れてしまっていたのだ。傷も残していない。悠介のために自殺したのにだ。女たらしの悠介が憎かった。少しだけでも記憶に残っていればまだしもだ。自分とは関係のないところで死んだ、と思っていたのだ。どうせ死ぬんだったら悠介のマンションででも自殺すればよかったのだ。そうすればいくらかはこたえただろう。それでいて、 「ぼくを恨んでいる女は一人もいないはずだ」  と豪語する。麻里子は全く無駄死にだったようだ。そういう悠介を許せなかった。     2  待ち合わせの喫茶店に、麻衣子は三十分遅れて行った。わざと遅れたのだ。だが中志茂は怒らなかった。 「今日は来てくれないのか、と思ったよ」  と言う。男は三十分待ったら怒るべきだ。十五分までは許してやっても。 「ごめんなさい。出がけに電話がかかって来たものだから」  実は、麻衣子は六時には店の前に来ていた。中志茂が急いで店に入っていくのを見た。それから新宿の街をぶらぶらしていたのだ。相手が腕時計を見ながらいらいらしているのを思うのは快感なのだ。  悠介も麻里子にこのような手を使ったようだ。すると女のほうは一気にのぼせ上ってしまう。もちろん悠介のほうは仕事で遅くなったのかもしれないが。麻里子は二時間でも三時間でも待っていたろう。そういう女の子だった。 「珈琲よりも、酒のほうがいいな、行こうか」  と伝票を摘む。呑ませて酔わせてホテルに誘うつもりなのだ。はじめっから腹の中が見えてしまっている。 「近ごろは忙しくないの」 「きみのことを思うとね、仕事ができなくなるんだ」  これも口説き文句なのか。容姿には自信がある。女にも自信があるのだ。  地下酒場に入った。民芸風の店である。カウンターに並んで坐る。すでにサラリーマンやOLで席は埋まっていた。 「ぼくがこんな気持になったのははじめてだよ。女なんてという気持があったからね。でも、きみと知り合ってぼくは変ったようだ。ほんとにきみを好きになったんだな、って」  ハイサワーが運ばれて来た。それを呑む。このように言えば、女は感動するはずだ、と思い込んでいる。口説き方は悠介よりも下手だった。第一にセンスがない。 「きみに会っていないと、とても不安なんだ。きみが他の男と会っているんじゃないかってね。するとじっとしていられなくなるんだ。きみが他の男に抱かれているんじゃないかと思うとじっとしていられない。これが恋というものか、と思ったりしてね。呑みなさいよ、酒は酔うために呑むんだ。酔わなきゃ酒も無駄だよ」 「あたしにそんな男いないわよ」 「そう聞くと安心だけどね。でもほんとは嘘を言っているんじゃないか、と疑ぐってしまう。恋すると男は狂うものだな」  恋の掛引きというのがある。いかにきみを好きか、恋している、と言いながら、女がその気になると、逆に冷たくなる。すると女は狂ってしまうのだ。 「麻衣子は、どこか冷たいよ、ぼくのことなんかどうでもいいんだな」 「そんな冷たくなんかないわ。こうしてあなたとお酒呑んでいるじゃない。ただ、そう見えるのはあたしの性格かもしれない」 「それとも古傷があるのかな。むかし男にひどい目にあった。それで男を好きになるのに用心深いんだな」 「簡単に好きになって捨てられるっていやなのよ」 「ぼくも用心深いほうだった。女に気持を弄《もてあそ》ばれるのはいやだって。だけど麻衣子に会ったら、そんなことどうでもよくなったんだ。とにかく会いたいんだ。会っているときだけが安心できる。中志茂吉昭も意気地がないなって思うんだよ。男も惚れてしまうと駄目なんだな。こんな気持になったのは、はじめてだ。仕事が手につかなくてね」  鏑木ならばわからないけど、この男は好きにはならないという自信はあった。だが、女の気持はもろいものだ。どこでポキンと折れてしまうかもしれない。折れたときにはもうその男しか見えなくなっている。  囲碁をやる人に聞いたことがある。局部に熱中していると大局が見えなくなる、と。大局とは碁盤全体のことだ。局部というのは部分的な争いである。男も女も惚れてしまうと大局が見えなくなってしまう。相手の一挙手一投足だけが気になって仕方がない。 「兄貴の気持、いまになってみるとわかるような気がするな」 「お兄さんって?」 「兄貴は女に惚れて自殺した。なんてバカな兄貴だろうと思ったけどね」  と言って、中志茂は急にあたりを気にして声が小さくなった。 「ぼくより八つ年上の兄だったけどね。もちろん奥さんがいて二人の子供がいた」  というと四十すぎだろう。中志茂が三十六だから。 「ぼくは養子だから姓は違うんだ。もう何年も前のことだけどね、兄貴は一人の女に惚れてしまったんだ。女郎|蜘蛛《ぐも》の巣にかかってしまったと思っていた。逃げようとしても逃げられないんだ」  麻衣子は妹の麻里子のことを思った。男の仕掛けた罠に嵌《はま》ってしまったんだと思った。 「惚れてしまうと男は身動きができなくなる」 「女だって同じよ」 「女の関心を引くために、いろんなものを買ってやる。もちろん兄はサラリーマンだから金なんてない。それで会社の金に手をつけた。するとブレーキが利かなくなる。自殺したときには三千万くらい使い込んでいたのかな。その女の男は兄だけではなかった。次から次へ男をあさるんだ。兄は五、六人いた男の一人だったんだ。そういうつもりでいればいいものを、自分一人のものにしたかった。その女が他の男とつき合う度に兄は狂った」 「その女の人、立見史子さんなのね」  中志茂はもう一度、周りを見た。周りには刑事らしい男はいなかった。たしかにまだ尾行されている可能性はあったのだ。 「女というのは、きみは違うだろうけど、物を買って贈られるのが当り前だと思っている。宝石とか洋服とか靴だとか。もちろん安ものじゃ気に入らない。宝石なんてきりがないからね。二百万円とか三百万円とか。女はそれを贈られて当り前だと思っている。高価なものを贈ってその女の体を抱かせてもらうわけだ。みじめだよね。もちろんみじめなんて本人にはわからない。つまりその女は、金持の男も兄のような男も平等にあつかったのさ。金持は何千万使おうと痛くも痒《かゆ》くもないわけさ。その女が兄を相手にしてくれなければよかった。無視してくれればよかった。それが金持男と同じようにあつかった。狂ってしまった男が悪いんだろうか」 「そうね、罠にかかったとしても好きになったほうも半分は悪いわね」 「そう、金がないのだから、自分で逃げ出せばよかったんだ。だけど兄には逃げる気がなかった。まるで魔術にかかったように、その女にひたすらだった。憐れなほど、奥さんが泣いて責めてもこたえはしなかった。そして近くの神社の森の中で首を吊って死んだんだ。自殺の動機は、会社の金の使い込みということだった。その女にしてみれば痛くも痒くもなかったんだろうね。それでも兄の葬式のときにはお焼香に来ていた。ぼくがその女を見たのは、そのときがはじめてだった。許せないと思ったね」 「それであなたは、彼女に近づいた」 「まあ、そういうことだね」 「どんな女の人だったの?」 「素晴しいボディをしていたね。身長は一六五センチくらいかな。それにハイヒールをはくからね。プロポーションがいい。女の体にも表情というのがあるんだ。腰の形がよかった。あんな女はそうざらにはいないね。一度ネると忘れられなくなるんじゃないかな。兄も一度、その女を抱いてから狂いはじめたんだ」 「あなたはその立見史子を殺した?」  中志茂は黙り込んだ。 「だけど、ぼくもこの何日間か兄貴の気持がわかるような気がして来たんだ。きみに会わなければよかったと思うよ」 「あたしは、それほどの女じゃないわ」 「いや、きみはあの女よりもきれいだ。デリケートでもあるし、何よりも女らしいんだ」 「冷たい女なのに?」 「その冷たさは別さ。いや、その冷たさのゆえに、ぼくは焦《じ》れて来るのかな」  ハイサワーを二度お代りした。麻衣子は酔っていた。こういうときに男に抱かれるのはいやではない。好きでなくても男には抱かれることができる。女の体とはおかしなものだと思う。  中志茂に抱かれるのは、もう一つの理由があった。警察への怯《おび》えだった。覚悟はしているといっても、目の前に現われるまでは不安なものだ。 「行こうか」  と中志茂が言った。どこへ、とは聞かなかった。決っているからだ。女というものは、愛しているから抱かれるのだ、と思っている。自分にそう思い込ませる。だが、セックスと愛とは関係ないものだ。その証拠に愛していなくてもオルガスムスはある。  悠介に抱かれてもオルガスムスはあった。中志茂に抱かれても同じだ。もっともそのプロセスは異るが。  酒場を出て歌舞伎町の方へ歩く。麻衣子は中志茂の腕にすがった。酔っていてつっかい棒が欲しかったのだ。区役所通りを奥へ奥へと行く。そしてひっそりとしたラブホテルに入る。前回もここだった。あるいは立見史子を連れて来たこともあるのだろう。  ホテルに入り、エレベーターで上る。そして部屋に入った。彼がバスの湯槽《ゆぶね》に湯をためる。それから中志茂は抱きついて来て唇を重ねる。舌を吸いながら手をスカートの中にのばして来る。  こうして肌に触られるのも悪い気持ではなかった。腿から尻へと男の手が這いまわる。それほど若くはないのだから、せっかちに体をつなごうとはしない。肌の感触をたのしんでいるのだ。  湯がたまっているころである。体を離した。 「一緒に風呂に入らないか」  と言った。麻衣子は、ええ、と言った。彼は先に脱衣場に行って脱ぎはじめた。裸になってバスに入る。そこで麻衣子は立ち上がった。体が怠《だる》かった。酔いもある。快い怠さである。脱衣場に入って脱ぎはじめる。  体には自信があった。自分を女盛りだと思っている。肌もスベスベしていて、腰から太腿にかけては快く肉がついている。パンティを脱ぎながら、鏑木の罠に嵌ったな、と思った。鏑木はこのような成り行きを考えていたのか。  二人とも殺人容疑者である。その二人を会わせた。容疑者として警察にマークされている。それだけに不安なのだ。不安が二人を結びつけた。それが鏑木の計算の中に入っていたのか。  タオルを手にバスのガラス戸を開けた。中志茂は湯舟にひたっていた。男の目が体を見ている。タオルで股間だけを隠していた。湯舟のそばにしゃがみ込んで湯をかぶる。その様子もじっと見ていた。 「きれいだよ」  と彼が呻くように言った。 「二人一緒には入れないわ。出てよ」  と言った。彼は湯舟から外へ出た。その間に麻衣子は湯に入る。体を男の目にさらす。恥ずかしい。だが、その恥ずかしさも快いのだ。  中志茂とこんな関係になるとは思ってもいなかった。あのときもそう思っていたのは酒を呑むまでだった。酔ってしまって彼に誘われたとき、どうでもいいわ、と思った。心細い反動が出たのだ。  麻衣子は湯舟を出ると、彼の背中を洗ってやった。湯で泡を流してやると、彼は麻衣子の背中に回って来た。そして抱きしめて二つの乳房を握った。男の腕は目の前で交叉していた。  乳首がしこっていた。その乳首に男の指が触れてくると、ズキンと疼《うず》きが走る。うっ、と思わず声が出る。男の片手が股間にのびて来た。はざまを上下に撫でる。指が折れ曲りクレバスを割った。そこは潤んでいた。男の指先が粘膜をなぞる。指は軽く滑る。指が敏感な突起に触れる。アッ、と声をあげた。指は当てられたまま動かない。麻衣子は思わず腰をひねった。また、アッと声が出た。全身に鋭く響くのだ。 「ここではいやよ」 「わかっている」  クレバスばかりにはこだわらなかった。内腿を撫でまわす。何だかそれだけで露がにじみ出てくるような気がするのだ。彼女は右手を自分の尻のほうに回した。そこに怒張したペニスがあった。それを握る。握って手を前後させる。ワギナの中に指が入って来た。そこがぬめっているのはわかっていた。体の中に熱い珠のようなものができていた。その珠がゆっくりと回転しながら溶けていくような気がする。ワギナの中で指がしきりに動いている。 「ねえ、上って待っていて」  と言う。中志茂は素直に離れた。そして湯舟につかると上っていく。体を洗いはじめる。その場で彼を受け入れたかった。だが、それをこらえるのもまた快いのだ。バスを出て、素肌に洗いざらしの浴衣を着る。  中志茂はベッドに入って待っていた。ベッドに入ると、彼が抱きついて来た。 「きみを離したくないんだ。きみが他の男に抱かれているかもしれないと思うと、ぼくは狂いそうになるんだ」 「そんな人いやしないわ」 「妄想というんだろうな」  手をはざまに入れて来た。 「ここに、他の男のものが入ると思うともうたまらない」 「そんなことないわ」  手をペニスに誘われた。それを握ってやる。 「他の男のこれをきみの手が握っている光景を思う。ぼくはどうにもならなくなる」  中志茂は麻衣子の股間に顔を埋めて来た。 「いやっ、それはいやよ」  と腰をひねる。クレバスが拡げられ、そこに舌が躍る。ひっ、と声をあげ、逃げる代りにはざまを押しつける。     3  鏑木一行は、横浜の山下署に来ていた。様子を見るためである。来須刑事がいた。交換殺人かも、と言い出したのは来須だったのだ。  交換殺人だったら、二人ともアリバイはないことになる。公文麻衣子を引っぱることもできるのだ。参考人として呼ばないのは、動機が掴めないからだ。  いまのところ、容疑者が三人いる。刑事たちはその三人を洗っているのだという。動機は反町悠介に捨てられた恨みである。  交換殺人を言い出したものの、ただの推測にすぎない。何一つ証拠がないのだ。拳銃でもみつかれば別だが、中志茂吉昭の家宅捜索もできない。中志茂は丸の内北署の容疑者である。こちらからは手は出せない。推測だけでは参考人として呼び出すこともできない。 「鏑木さんは熊本まで行ったそうですが、何か出ましたか」 「何も出ませんね」 「アリバイはどうにもなりませんか」 「熊本に行ったのも無駄だったようです」 「鏑木さんでもね」  と溜息まじりに言った。 「はじめっから変な殺しだった。公文麻衣子とむこうの中志茂とはおかしなことになっているそうじゃないですか。いや、うちの刑事が公文を尾行したんですよ。二人は仲よくなってラブホテルに入ったということです。二人を引き合わせたのは鏑木さんでしたね」 「何か出て来るかと思ってね。そうですか、二人はそこまで行ったんですか」 「堂々とね。あれでは交換殺人ではありませんな。交換殺人だったら、あのように堂々と中志茂と会えるわけはないでしょう」 「われわれの目を誤魔化すカモフラージュかもしれません。二人とも自信があるんですよ。中志茂が山下公園にいたという情報でもあればいいんですが」 「指紋が残っているというんなら別ですがね、近くの駅でも聞き込んでみたんですが、何も出て来んのですよ」 「その三人の容疑者の中に本命はいるんですか」 「さあね。わかりませんよ」  もちろん、捜査秘密を洩らすわけはない。一行には公文麻衣子のことは頼んだ。だが、それ以外のことは知られたくないのだろう。 「鏑木さんにもわからなければ、公文麻衣子は白ですかね」  山下署を出ると、山下公園に向った。公園には人がいっぱいいた。五月の連休のさなかである。岸壁には宗谷丸がつながれている。子供たちが走り回っていた。四月二十四日の事件はすでに忘れ去られている。  殺人現場の前のベンチに坐っていたアベックが立ち上ったのでそこに坐った。そして煙草に火をつける。大きく吸って煙を吐く。  熊本からもどって来たばかりである。『はやぶさ』は東京駅に一〇時〇九分に着く。靖子とは東京駅で別れた。彼女は中央線電車で八王子へ帰っていく。そのあと一行は、丸の内北署の捜査本部に顔を出した。事件は一行の知らない方向へ動いているようだった。  捜査本部の刑事たちも、中志茂は白だと思い込んでいるようだ。彼のアリバイを崩そうと考える刑事はいないようだ。刑事たちはものを考えない。主任の指示通りに動く。頭を働かせるのは捜査主任だけなのだ。  中志茂は四月二十四日に熊本駅にいた。『はやぶさ』が発車したあと駅の改札口を入場券で出ている。それは駅員が証言してくれた。だが、一行は捜査本部でそれを口にするつもりはなかった。  刑事たちは一行を無視した。北署を出て、山下署に向ったのだ。  中志茂のアリバイは崩れた。だが、まだ発車から十五分間の謎が残っている。だから、アリバイが完全に崩れたとは言えないのだろう。  ベンチに坐って、煙を吐く。靖子が熊本まで来たために思考がとぎれてしまった。といって靖子を恨んでいるわけではない。何か新婚気分のようにほんわかとしていた。  寝台車にもどってから、靖子は一行の寝台に入って来た。何もしないでいいから、黙って抱いていて、と言ったが、結局は体を重ねることになってしまった。ただ抱いていて何もしないというわけにはいかない。あっちに触りこっちを撫でしているうちにその気になってしまう。靖子は可愛い女だった。少なくともいまの一行にはそう思えるのだ。  ベンチを立って桜木町駅に向って歩きだす。公文麻衣子が反町悠介を殺したのなら、この山下公園に来ていなければならない。そして『はやぶさ』に乗り込むためには、羽田空港に向って急がなければならない。広島の手前で『はやぶさ』に乗り込むには羽田から広島空港まで行かなければならない。いまは悠介を殺して『はやぶさ』に乗り込むのは不可能だ。悠介を殺すことも不可能に思える。それを可能にしなければならない。  時間的には合わないが、公園を出てすぐタクシーを拾ったのではないのか。桜木町駅まで歩いたのでは間に合わないのではないのか。山下署では麻衣子が乗ったタクシーを探したのか。あるいは時間があれば、桜木町から電車に乗って横浜か蒲田あたりでタクシーに乗るという手もある。そうなるとほとんど探し出すことはできなくなる。  捜査本部では、麻衣子を容疑者から外している。だから、タクシーを探すなどの手間は掛けていない。 「ここからタクシーに乗って羽田空港までどれくらいかかるのだろう」  と思った。  一行は、公衆電話を探した。そして『はやぶさ』で麻衣子と一緒だったという高瀬康夫に電話した。事情を話して、会ってくれませんか、と言った。 「いいですよ、少し酒でものみませんか」 「けっこうです」 「それでは、六時に渋谷のハチ公前でどうです。ぼくは手にスポーツ紙を持っています」  と言った。お互いに相手を知らないのだ。だが行けばわかるだろう。  そこから公園の入口にもどってタクシーを止めた。わりにタクシーはひろえるようだ。乗って、 「羽田空港」  と言った。 「空港までどれくらいかかりますか」 「そうですね、だいたい三十分ですね、こみ具合にもよりますが」  車が走っている間、一行は時計を気にしていた。運転手が言ったように三十分で空港に着いたのだ。遠いようで意外に近いのだ。捜査本部でタクシーを調べる気があれば、山下公園入口から羽田空港まで乗った麻衣子が探し出せるかもしれない。警察にはそれだけの機動力があるのだ。  羽田空港で、一行は反町悠介を解剖した医者に電話した。医者の電話番号は来須刑事に聞いていた。だが医者は不在だった。  モノレールで浜松町に出る。そこから、山手線外回りの電車に乗った。高瀬との約束の時間までに一時間ほどあった。その間、渋谷駅の周辺を歩いた。  羽田空港から広島行きの航空便は最終が一八時三〇分だった。六時三十分だ。悠介の死亡が六時二十分、離陸まで十分しかない。射たれてから死ぬまで十分くらいはあったろうと解剖医が言った。だが二十分でも羽田空港は無理だ、と考え捜査本部は手を引いた。  たしかに死亡推定時刻は変えようがない。だが射たれてから死ぬまでの間は時間がもっと延びるかもしれないのだ。死ぬまでの時間がもう十分、つまり二十分延びればどうなるのか。二十分延びれば六時に射たれたことになる。飛行機が一八時三〇分だ。二十分が三十分だったらどうなるのか。三十分で羽田空港に着く。十分あれば飛行機に乗れるのではないのか。  一行はどうあっても麻衣子を犯人にしたいのだ。アリバイは必ず崩してみせる。悠介が射たれてから三十分も岸壁に立っているわけはない。常識的に考えてだ。警察というところは常識しか通らないところだ。三十分も立っているのであれば、助けを求めれば充分に助かった。そう考えるのが警察である。たしかに射たれて三十分も立っているというのは非常識なのだ。  常識というものを取っ払うと、いろいろなものが見えて来るのだ。一行も警察を辞めてからそのことがわかって来た。捜査員が、こういうことも考えられるんじゃないですか、と自分の考えを言っても、捜査主任は取り上げてくれない。推理だけでものを言うな、と主任は言う。相手にしてくれない。そういうことに馴れると刑事たちは自分で考えようとはしなくなる。主任の言う通りに歩いていればいいのだ。  捜査会議では捜査員たちが意見を述べるがそれが取り上げられたことはない。一行もそれを痛いほど知っている。来須刑事の交換殺人の件も捜査主任には通じていないのだ。来須と的場刑事だけがそう思ったに過ぎない。交換殺人そのものが非常識なのだ。  六時になってハチ公の銅像の前に行った。そこに小柄な四十男が立っていた。手を見るとスポーツ新聞を握っていた。 「高瀬さんですか」  と言うと男が振り向いた。鏑木さんですね、と言った。高瀬は横断歩道を渡って宇田川町に入った。渋谷はあまり知らない。いまは若者の町だという。彼は路地を入って地下のバアに入った。わりにしゃれたカウンターだけの店だった。  カウンターに並んで坐った。 「はじめはビールからいきましょうか」  と高瀬が言った。 「いや、公文麻衣子についてはいろいろ喋ってみたかったんですよ。ぼくのタイプの女でしたからね。もちろん、ぼくのところに刑事も来ましたがね、彼女は人殺しなんかしていませんよ。そんなことのできる女じゃない」  ビールのグラスを少しだけ上げた。 「彼女に何度か電話しましたが会ってくれないんですよ。せっかくアリバイの証人にもなってやったんだから一度くらいは会ってくれてもいい、と恨みましたがね。いま考えてみると会ってくれなかったほうがよかった。一度でも会っていたら、ぼくは彼女にのめり込んでいたでしょうね。あんな美人がぼくなんかに会ってくれるわけがない。そう思ったほうが楽なんですね。でも、一度でいいから、彼女とベッドインしてみたいなと思いましたよ。低俗な男ですからね。でも彼女を見てから、他の女がブスに見えて仕方がないんです」 「公文麻衣子に会ったときのことを話していただけませんか」 「ぼくがロビーカーに行くと、彼女がぼんやり坐っていたんです。ぼくは自動販売機で缶ビールを二本買って、どうですか、と一本をさし出したんです。そしたら、いただきます、と言って受け取ってくれたんです。そっぽ向かれるかと思っていましたがね。それが広島に着く十分ほど前でした。刑事に言ったのはそれだけです」 「彼女は汗を出していませんでしたか」 「えっ、汗? そんなもの流していなかったですね」 「どんな様子でしたか」 「そう、眠れないので出て来た、と言っていました。ぼくもそうでしたからね。あのロビーカーというのはいいものですね。まるでサロンにでもいるみたいで、L字型のソファがいくつかありましてね」 「彼女は何号車に乗っているとか言いませんでしたか」 「さあ、聞きませんでした」  ビールを空にすると、ウイスキーの水割りにした。 「はじめはそれほど目立たない女でしたがね、よく見ると美人でした。肌がいかにも白そうで、体が柔らかそうで、抱きしめたくなるような女でした」  たしかに麻衣子にはそういうところがある。悠介が夢中になったのもわかる。高瀬も麻衣子に夢中になりたかったが拒否された。いまは中志茂が麻衣子に夢中になっているのだろう。来須刑事は二人はラブホテルに入った、と言っていた。 「どこか変ったところは? 例えば疲れていたとか」 「そう言われてみれば疲れていたのかもしれませんね。何となく怠そうでした」  悠介を殺してもどって来たのなら疲れていたはずだ。 「あなたは名刺を渡した」 「ええ、名刺を渡しました。彼女は名刺を持っていなかったので、名前と連絡先を手帳に書いてもらいました」 「彼女が書いたんですか」 「ええ、女らしいきれいな字です」  と言って高瀬は手帳を出し、ページを開いて見せた。 「せっかくのチャンスだったと思ったのに、いまも忘れられないでいるんですよ。ぼくは女好きなんですがね。いまは他の女には手を出す気がしないんです」  いま、麻衣子が中志茂に抱かれている、と言ったら、この高瀬はどんな顔をするだろう。一行さえ、ちょっと嫉《や》けてくるのだ。靖子のことを思って苦笑した。男というのは仕方のないものだ。いい女とみればつい妄想してしまう。     4  高円寺のアパートに帰ってみると、留守番電話に、反町祐一郎の声があった。 『きみに紹介したい人がいるから、午後二時ころ八王子の家に来て下さい。午前中に電話いただければ幸いです』  祐一郎は、悠介と靖子の父であり資産家である。靖子が言っていた。父が警備会社に紹介すると。それもあるが、これまでの調査の報告もしなければならなかった。  翌日、九時に反町家に電話を入れた。電話に出たのは靖子だ。熊本は楽しかったわ、と囁くように言った。午後二時におうかがいすると、お父さんに伝えておいてくれ、と言って電話を切った。  祐一郎に会うのが少しこわいような気もした。靖子が熊本に来たこともある。昼飯を食ってから八王子に向った。ちょっと早すぎたので少しあたりをぶらぶらした。  二時ちょうどにブザーを押した。出て来たのは中年のお手伝いだった。応接室に案内される。そこには祐一郎ともう一人、五十年配の男が坐っていた。 「この男が、死んだわしの息子の友だちだった男だ」  祐一郎の前に坐っていた男は立ち上った。 「この人はわしの古い友人でね、いま東郷警備会社の取締役で調査部長をしている藤崎くんだ」  名刺を交換した。  坐れ、と言われて二人の向いに坐った。 「藤崎くん、わしはこの鏑木くんの面構えが気に入ってね、何かできる男だと思った」 「神奈川県警におられたとか、聞きましたが」 「はい、捜査一課でした」 「それはちょうどいい。わが社でもあなたのような人材が欲しいところだったんです。連休明けにでも会社のほうに来てくれませんか」 「そうします。反町さん、事件の報告があるのですが」 「それはあとにしよう。悠介殺しの犯人がわかっても、悠介がもどってくるわけではない。藤崎くんと顔つなぎができたんだ。今日はこれでけっこう」  それでは、とソファを立った。一礼して応接室を出る。祐一郎は事件のことを気にしていないようだ。もっとも犯人がわかったからといって悠介が生き返ってくるわけではないのだ。  反町家を出るまで、靖子は姿を見せなかった。どこかに出かけているのかもしれない。そのことが気になったりする。わかっているようで、靖子にはどこかわからないところがある。  一行は、足を中志茂のアトリエに向けた。アトリエに着くまで靖子のことを考えた。一緒にいるときは甘えかかってくる。だが別れると妙に遠い女のような気がするのだ。甘えているときは可愛い女だ。だが、他の男にもあんな風に甘えているのかもしれない。 「一行さん、ごめんなさい、あたし別な男の人を好きになったの」と突然言い出されそうな気がする。一方ではそんなことあるわけはない、と否定してみるが自信がないのだ。  アトリエに着いた。中志茂は挿絵を描いていた。 「いま少しで片付くから、そこに坐っていて下さい」  と言った。出版社からの依頼だろう。テクニックは持っているようだ。十分ほどで椅子を立って来た。 「鏑木さん、あなたのおかげで、ぼくはいま苦しんでいるんです。麻衣子さんを愛してしまったんです。あなたの責任ですよ。いま、ぼくは麻衣子さんに会わなければよかった、と思っているんです」 「中志茂さん、あなたのアリバイは崩れましたよ」 「えっ」  中志茂の顔がこわ張った。 「昨日、熊本から帰って来たところです。あなたのアリバイの作り方は安易でした。あなたは熊本駅で目立つ行動をとっています。熊本駅の改札係の駅員が、あなたがあわてて改札口を出てタクシー乗り場に走ったのを見ていました。入場券だったそうですね。あなたが立見史子と『はやぶさ』に乗るのも見ていました。また、史子の友だちがあなたと史子が町を歩いているのを目撃していますよ。これだけで、あなたは参考人として丸の内北署に呼ばれますね。あるいは逮捕状が出るかもしれない」  中志茂の顔色が変った。 「あなたは、熊本空港から日本エアシステムの354便、一七時五五分に乗った。搭乗者名簿を調べたら不明の人が一人いた。他はみんな電話をかけて確認をした。一人だけ確認ができなかった。それがあなただ。354便が羽田空港に着くのは一九時二五分。新宿の『はつもみじ』まで一時間五分ある。充分に間に合いますよ」 「しかし、ぼくは」 「捜査本部では、あなたは博多でしか降りられないと考えた。だからアリバイが成立したのです。でも、あなたは熊本駅で降りた。これには証人がいる。裁判になれば証人を呼ぶことになります。あなたは二枚目で背が高い。目立つんですよ。刑事たちは熊本でおざなりの捜査をした。だからあなたをみつけられなかった。ぼくは運がよかったのかもしれませんね。あなたを熊本で見た人を二人もみつけた。二枚目というのは、こういうときに不便ですね」  中志茂はうつむいた。 「あなたも、人一人を殺しておいて逃げられると思ったわけではないでしょう。覚悟はできているはずです。その覚悟がなければ人殺しなんてできませんよ。ただ一つ言っておきます。ぼくは刑事ではありません。あなたを捕えようなどとは思っていません。あなたのことを丸の内北署に話すつもりもないんです。捜査本部が熊本のあなたに気付いて逮捕状を持って来れば仕方のないことですが。いま捜査本部では別の容疑者を追っているはずです」  一行は煙草に火をつけた。中志茂はうつむいて何かを考えているのか。 「ただ一つお聞きしたいんです。あなたは農薬入りのカプセルを立見史子に飲ませた。そのカプセルに細工をした。十五分経ってから薬効があらわれるように。そうですか。あなたのアリバイのミソは『はやぶさ』が発車して十五分後に彼女が苦しみはじめたことです。それで警察は勘違いしたのです。常識的には毒薬を飲んだらすぐに苦しみはじめるものと考えるものです。農薬は青酸性の毒とは違って即効性は薄いものと聞いています。でも苦しみはすぐにやって来ます。すぐに悶え苦しむことでしょう。だから博多でしか犯人は降りられないと考えた。カプセルにどういう仕掛けをしたんですか」  中志茂はしばらくして顔を上げた。 「ぼくの兄が、史子に欺されて自殺した。残された妻子を見ていてだんだん腹が立って来たんです」 「兄さんの復讐ですか。でも立見史子は欺したのではないかもしれない。兄さんのほうが勝手にのめり込んだ。そんなことはどうでもいいんです。ただ兄さんが弱かったというだけでしょう。史子の責任ではない」  もちろん、一行も靖子に対して嫉妬に狂いそうになったことを忘れていたわけではない。苦しんだ。やけ酒を呑んだ。だが靖子が悪かったわけではない。たとえ別の男と寝ていたとしてもだ。 「ぼくは先に缶コーヒーでカプセルをのみました。そして同じカプセルを史子に渡した。強壮剤だと言って。彼女は笑いながら飲んだ。そこでぼくは史子の鳩尾《みぞおち》を殴ったんです。ぼくはむかし空手をやっていたので。史子は気絶しました。ぼくは缶コーヒーを持って個室を出ました。発車のベルが鳴っていました。ぼくが列車を降りたとき背後でドアが閉ったようです。史子は苦しさで失神からさめた。その間が十五分だったようだ」 「なるほど、そう聞けばわかります。あの個室にあなたの指紋がなかったのは?」 「指にビニールテープを貼りつけていました」  指紋が残らないはずだ。もちろん、一行は熊本空港で搭乗者名簿を調べたわけではない。そういうことだろうと思っただけだった。  どうも、と言って椅子を立った。 「ぼくに話したことは忘れて下さい。ぼくも聞かなかったことにします。第一にぼくの調査の目的はあなたではなかったのですから」  と言ってアトリエを出た。  たいしたアリバイ工作ではなかった。発車して十五分後に史子が苦しみはじめ、それから三十分後に死んだ。刑事たちは苦しみはじめたときを犯行時と考える。その思い違いが中志茂のアリバイを成立させてしまったのだ。だから刑事たちは熊本にはこだわらなかったのだ。  一行は、駅の近くの公衆電話で、反町家に電話を入れた。出たのはお手伝いだった。 「靖子さんをお願いします」 「お嬢さまはお出かけです」  礼を言って受話器を置いた。どこに? とまでは聞けなかった。とたんに鼓動が早くなる。 「これはいかんな」  と呟いた。靖子は自由な体だ。暇をもて余している。どこへでも出かけるだろう。ただの買物かもしれないし、高校か大学時代の友人と会うのかもしれない。それは靖子の自由だ。一行が干渉することではない。それなのに靖子の行動が気になる。  もちろん靖子と結婚するようなことにはならない。だが万一結婚したとしたらどうなるだろう。毎日、靖子の行動が気になるだろう。外から電話をかけてもし家に靖子がいないと、浮気しているのではないかと思う。そして、外出するときには、どこへ行くんだと聞き、そしてその出先まで確かめるようになる。  一行は、そんな自分がいやだった。いやなだけでなく、それでは自分がたちまちくたびれ果ててしまう。仕事なんてできなくなるだろう。  靖子の別れた夫は秀夫といった。秀夫は靖子の行動を監視する自分に耐えられなくなって離婚したのかもしれない、と思いはじめた。 「靖子とは別れるべきかもしれないな」  今日、一行が反町家に行くとわかっていながら、どこかに外出した。そこに腹を立ててみても、靖子の立場に立って考えれば、彼女は何も悪くはないのだ。一行と会う約束をしていたわけではない。とやかく言われる筋合いはないのだ。  一行が一人芝居を演じているだけなのだ。一人で苦しんでいる。一人で嫉妬している。自殺したという中志茂の兄も、そういうジレンマに立っていたのだろう。立見史子の場合は靖子とは違う。中志茂の兄とつき合っていても史子は他の男に抱かれていた。だからといって史子が悪いわけではないのだ。中志茂の兄は史子のことで苦しみに苦しんだ。そしてその苦しみに耐えきれなくなって自殺した。史子は自分のために彼が自殺したとは思わなかったに違いない。  よくあることだ。熊本で靖子に聞いた映画監督の自殺も同じたぐいのものだったのだろう。女優に別れ話を持ちかけられて苦しんだ。だからと言って女優に罪があるわけではない。それなのに女優のマンションで首を吊った。男というものは、どうしようもない生きものらしい。 「そうだ。靖子とは別れよう」  これ以上苦しむのはいやだった。  八章 阿寒湖畔心中     1  鏑木一行は、高円寺のアパート白壁荘の自分の部屋にいた。湯を沸かして茶を淹《い》れる。卓袱台《ちやぶだい》の上には大型の時刻表を拡げていた。公文麻衣子のアリバイを崩さなければならないのだ。麻衣子のアリバイは完璧に見える。だが、彼女が反町悠介を殺したのなら、どこかに穴があるはずだ。  お茶をすする。濃く淹れた。畳の上にひっくり返って天井を眺める。靖子とは別れると決めたときから、気分はいくらか軽くなっていた。だが別れるのはもったいないような気がする。あれほどの女はめったにいないだろう。未練である。たかが一人の女のために、という歌がある。男はむかしから女のために苦しんで来たのだろう。  プレイボーイの悠介も、公文麻衣子には苦しめられたのか。麻衣子もまた、中志茂のように何かの恨みを抱いて悠介に近づいたと考えるべきだろう。  麻衣子は悠介を冷たくあしらった。悠介はそれで一気にのぼせ上ってしまった。彼には麻衣子がこれまで遊んで来た女たちとは全く違った女に見えた。熱くなり狂った。プレイボーイだからいつも女には冷静、というわけにはいかないだろう。  そうだとすれば、悠介の苦しみは一行にもよくわかる。そのとき悠介は他の女のことはどうでもよかった。麻衣子だけしか見えなかった。  悠介は、横浜の山下公園で麻衣子と待ち合わせた。麻衣子はジュニアコルトで悠介の背中に弾を二発射ち込んだ。そのとき麻衣子は恨みの言葉を言った。悠介にはショックだった。二重、三重のショックだったのに違いない。  愛していた麻衣子に裏切られた。恨みを持って自分に近づいて来たこともはじめて知った。その上に拳銃で射たれた。そこで悠介は絶望した。絶望はしたが麻衣子を殺人犯にしたくなかった。  小雨が降り出した。それでコートを着た。救急車を呼べば助かるかもしれない。だが、彼は呼ばなかった。もう生きていたくなかったのだ。死にたかった。だから何の手も打たなかった。だから一行は悠介の死を自殺と考えたのだ。悠介は自分から海へとび込んだ。  悠介は岸壁に立って煙草を吸っている。煙草を吸いながら何を考えていたのか。たかが一人の女のために、と歌い笑っていたのかもしれない。  一行は、電話の受話器を把った。そして横浜の病院に電話した。悠介を解剖した医者につないでもらった。幸い医者はいた。一行は自分の名を名乗った。 「山下公園の殺人事件ですが、先生は、被害者は射たれて十分くらいは生きていただろうとおっしゃったそうですが、三十分生きていた可能性はありませんか」 「可能性としてはあるね。心臓は傷ついていたが、心臓を貫通していたわけではない。三十分か四十分かもしれない」  礼を言って電話を切った。悠介は可能性としてだが、射たれて三十分か四十分は生きていた。すると、広島行きの最終便、全日空685便に乗れる可能性が出て来た。685便は一八時三〇分に離陸する。死亡時刻から考えるとこの便に乗るのは全く不可能だが、悠介が三十分から四十分生きていたとすれば685便に乗れるのだ。公園前からタクシーを拾っても羽田空港には三十分で着く。空港で十分くらいの余裕はあった。  広島空港に着くのは二〇時。空港から広島駅までは三十分。二〇時三〇分には広島駅に着ける。『はやぶさ』が広島駅に着くのは二二時三九分。すると二時間以上も間がある。  麻衣子は『はやぶさ』が広島に着く前から乗っていた。広島の前の停車駅は岩国である。二〇時三五分の各駅停車下り列車がある。これに乗ると岩国には二一時二二分に着く。これに乗れなければ、次に二〇時五〇分発がある。これにはゆっくり間に合うだろう。岩国に着くのは二一時三四分。『はやぶさ』が岩国に着くのは二二時〇三分である。三十分の余裕がある。  麻衣子は岩国で『はやぶさ』に乗り、そしてロビーカーに行きぼんやり坐っていて高瀬に声をかけられた。  これで後半のアリバイは崩れた。だが、前半はどうなのだ。麻衣子は熊本から『はやぶさ』に乗った。乗ったように見せかけ、キップにハサミを入れてもらって降りたとしても、六時少し前に山下公園には着けないのだ。 『はやぶさ』は熊本発が一六時三五分、つまり四時三十五分だ。空港までバスで五十四分。五時を過ぎることになる。すると山下公園まで一時間はない。熊本空港から羽田空港まで一時間半はかかる。その途中で時間切れになる。六時前に山下公園に着くのは不可能だ。  だが、とにかく半分の謎は解けたことになる。一行はふと思いついて外出の仕度をした。部屋を出ようとしたとき、電話のベルが鳴った。もどって受話器を把った。靖子だった。 「電話をくれたそうだけど」 「いいんだよ、たいしたことではない。また電話するよ」  と言って電話を切った。そしてアパートを出る。高円寺駅に向って歩く。今日は東郷警備会社の藤崎部長に会うことになっていた。それをケロッと忘れていた。会社は渋谷だった。新宿で山手線に乗り換える。渋谷で降りて町名を確かめる。原宿に近いあたりだった。六階建てのビルだった。三階までエレベーターで上る。そこに受付があった。受付で藤崎の名前を通すと、受付嬢が連絡をとる。 「しばらくお待ち下さい。藤崎専務はここへ見えます」  と言った。二人いる受付の女の子は二人ともただの女だった。麻衣子や靖子とはレベルが違うのだ。 「やあ、待っていましたよ」  と藤崎が姿を見せた。彼のあとにくっついていく。調査部長室というプレートのかかったドアを開く。ここが藤崎の部屋らしい。 「まあ、どうぞ」  とソファを示した。女秘書に珈琲を運ぶように命じておいて、藤崎は向いに坐った。 「鏑木さんのことは調べさせてもらいました。なかなかの猛者だったようで」 「だったら、何で懲戒免職になったかもおわかりになったでしょう」 「うちの社に入ってもらえますかな。調査部と言っても人材がなくてね。素人を雇っても一人前になるまで三年かかりますからね。遊んでいるよりもいいでしょう」 「条件次第です」  いまは便利屋で食うや食わずの生活をしているが、自分を安く売るつもりはなかった。 「反町くんの目を信用したいと思う。あの人はものの見える人だからね。きみの条件はたいていはのめるつもりだがね。きみはただの調査員ではなく、わしの直属の調査員になってもらいたい。仕事は多いんだよ。こなしきれないほどある」 「わかりました。こちらも東郷警備会社がどのような会社か一応は調べてみたいと思います。明日、電話でご連絡させてもらいたいと思いますが、それでよろしいでしょうか」 「それでけっこう。だが、できるだけ入社してもらいたいね。いやだと言えば、反町くんに頼むことになる」  一行の言う条件はのんだ。ちょっと安易すぎた。それで一日考えてみようと思ったのだ。警備会社はいくらもある。そこには神奈川県警の先輩たちもいる。東郷警備のことを少しは聞いておきたかった。  一行は渋谷駅で、公文麻衣子に電話を入れた。彼女は事務所にいた。ちょっと会いたいのですが、と言うと事務所の近くの喫茶店でと。喫茶店に着いたらまた電話下さいと言った。  麻衣子に、中志茂のアリバイが崩れたことを喋ってやろうと思った。どういう反応をみせるかがたのしみだった。  東京駅を降りて八重洲口に出る。横断歩道を渡って一〇メートルほど歩いたところに、麻衣子が勤めているビルがある。その一〇メートル先に喫茶店があった。  店に入り窓ぎわの席をとり、珈琲を注文しておいてレジわきの赤電話から電話した。そして席にもどる。そして煙草に火をつけた。ガラス窓の外の舗道を人が歩いていく。その一人一人に目をやった。人の顔というのは面白いものだ。それぞれの顔をしているし、それぞれのプロポーションをしている。それぞれの生活があるのだ。人の顔を眺めているのもけっこう面白いものだ。むこうからこちらは見えないのだ。  麻衣子はいつものように十五分ほど遅れて来た。だが、それについては一言も弁解しない。当り前だと思っているようだ。彼女は一行の前に坐った。 「熊本に行って来ました」 「そうですか」 「中志茂さんとはうまくいっているようですね、情報は入ってますよ」 「あなたのせいよ」 「ぼくのせいですか」 「そうよ、鏑木さんがあたしたちを引き合わせていなかったら」 「それは申しわけないことをしました。でも似合いのカップルですよ、美男美女で」 「つぐないをしてよ」 「つぐない?」 「あたしをお酒呑みに連れてって」 「それは相手が違うんじゃないですか」 「いいえ、鏑木さんよ」 「それはどうも。どういう風の吹き回しですか」 「風の吹き回しじゃないの。いいでしょう」 「いいですよ、ぼくは暇ですから」 「じゃ、六時に『はつもみじ』で、いいわね」 「中志茂さんのアリバイは崩れましたよ」 「えっ?」  と厳しい顔になった。その顔も美しかった。 「それで逮捕されたの」 「いいえ、ぼくは警察に協力しませんよ。おれが話しても捜査本部は笑うでしょう。民間人に事件を解決されたくない。警察には警察の矜《ほこ》りがありますからね」 「あたしのアリバイは?」 「半分だけわかりました。だけどあとの半分がわかりません。まあ、時間の問題でしょうがね」 「半分だけ?」 「今夜ゆっくり話してあげますよ」 「そう、あなたならやると思っていたわ。警察にできないことも、あなたにならできると」 「あまり買いかぶらないで下さい。おれはただの男ですよ。ただ、捜査主任がいないので自分で考えなければならない。その代り行動は自由ですからね」 「そう、中志茂さんのアリバイは崩れたの。すると彼ももうおしまいね」 「おしまいかどうか。刑事が中志茂さんの前に現われるかどうか、そこまではわかりませんからね。それでは六時をたのしみにしていましょうか」  と一行は腰を上げた。伝票を麻衣子が掴んだ。 「あたし、もうしばらくここにいたいの」  考えたいのだろう。一行は先に店を出た。     2  六時に料理屋『はつもみじ』に来た。すると麻衣子は先に来ていたのだ。珍らしいことだった。彼女の前に坐った。テーブルの上には何もない。まだオーダーしていないのだ。ビールとおこぜの刺身をたのんだ。 「どうしたんですか」 「あたしだって、いつも遅れるとは限らないわ」  仲居がビールを持って来た。二つのグラスに注ぐ。グラスを上げる。 「妙な風向きだな」 「あたし、今夜、酔ってもいいでしょう」 「いいとも」 「ねえ、ちゃんと面倒みてくれる」 「みれるところまではね」  麻衣子は一気にグラスを空《あ》けた。それにビールを注いでやる。 「何だか、やぶれかぶれみたいだね」 「そう、やぶれかぶれなのよ」 「やっぱり、悠介を殺した?」 「殺していないわ」 「悠介はきみに夢中になっていた。そうだろう。死んでしまいたいほどに。彼は山下公園の岸壁に三十分か四十分立っていた。助けを求めれば死ななくてすんだのに」 「悠介のことは止めて、中志茂のアリバイの話をして」 「まあ、そのほうが順序だろうね」  一行は、まず警察の考え方を話してやった。立見史子を殺したあと、博多で降りたと考えた。これではどうしても八時半にこの『はつもみじ』に着けない。それでアリバイはあると考えた。 「あなたは違ったのね」 「おれは尻から考えた。つまり熊本駅からだ。間は抜いてね、間のわからないところはあとに回した。すると、熊本駅と熊本の町に中志茂の姿があった。彼は目立つからね。自分が目立つことを予定に入れてなかったんだね。一人は立見史子の高校の友だち、もう一人は駅の改札係。『はやぶさ』の発車の前後だ。その時間に中志茂の姿があったんじゃ、アリバイはないのと同じだからね」 「中志茂は自白したの」 「したね。だが誰にも喋らない約束をしてね」 「あたしに喋っているじゃないの」 「アッ、しまった。中志茂との約束を破ってしまった。おれは口が軽いのかな」  わざと、ひょうきんに言った。 「おれは、警備会社に就職することにした」  まるっきり事件とは関係ないことを言った。 「そう、それはよかったわね」  麻衣子も気のない言い方をした。  ここへ来る前に彼女は中志茂に電話したのだろう。そうしないではいられなかったのだ。  彼女はビールからウイスキーの水割りに変えた。一行も彼女につき合った。 「あなたのせいよ」 「ということは中志茂を愛してしまったということかな」 「そんなんじゃないわ。同病相憐れむ、というでしょう」 「なるほど、二人とも殺人犯だからな」 「あたしは殺してないわ」 「それじゃ同病にはならない」 「あなたが、あたしと中志茂を追いつめたのよ。ひどい人ね」 「でも、お互いに慰め合えば、何とかなるんじゃないのかな」 「怯《おび》えたのよ、あなたに。中志茂だって自分のアリバイ作りには自信があったのよ」 「底の浅いアリバイ作りだった」 「でも、警察は彼のアリバイを信じたわ。あたし、はじめてあなたに会ったときから、そんな気がしていたのよ。彼も怯えた。あたしも怯えた。それが同病なの」 「そして慰め合ったわけだ」 「あなたがあたしたちを会わせたからよ」 「みんなおれの責任のようだな」 「そうよ、みんなあなたのせいよ。もう一軒呑みに行きましょう。今夜は放さないわ」  一行は呑み代を払った。そしてエレベーターに乗って降りた。麻衣子が右腕にぶら下って来た。それを左腕に移した。 「どうして、右腕は誰かさんのためなの」 「右腕だけはいつも自由にしておきたい。刑事のころからの習慣でね。世の中、何が起るかわからないのでね」 「ねえ、ホテルに連れていって」  一行は目を剥《む》く思いがした。そんなことを言い出す女ではなかったはずだ。 「連れていってくれなくていい、あたしが連れていくわ」  かなり酔っていた。足がふらついている。酔っぱらったから言っているのではない。それを言いたくて酔っぱらったのだ。区役所通りを奥に入った。 「妹は、悠介のために自殺したわ」 「なるほどね」  それを言い出すのを待っていたのだ。 「悠介のせいじゃなかったのかもしれない」 「そんなことはどうだっていいの。妹は免疫がなかったのよ、男に対しての。それで一気に夢中になってしまった」  だから悠介を殺したんだ、とは言わなかった。 「悠介はただの女たらしだったのよ。いいところのボンボンだったし、お金があっていい男だというのが悠介の悲劇だったのよ」 「おれくらいがちょうどいい?」 「自分で言っていたわ。おれと寝て、おれを恨んでいる女は一人もいないって。世の中、そう思い通りにはいかないわよね」  麻衣子は腕にぶら下ったまま、ラブホテルに入った。金を払ってエレベーターに乗る。部屋に入るとシャンとなった。バスの浴槽に自分でお湯を注いだ。 「あたしってヘンな女でしょう」 「ときにはヘンになってもいいさ。人生は長いんだ」 「花のいのちもわりに長いってことね」 「一度や二度、失敗があってもいい」 「あたしがあなたに抱かれるの、失敗だって言うの」 「失敗だろうね」 「お湯がいっぱいになったみたい。あなた、先に入って」  素直に立ってバスルームに行った。一緒に入ろうとは言わなかった。一行は、ちょっと靖子を思い出した。  浴衣を着て脱衣場から出て来た。入れ違いに麻衣子がバスに入る。一行は冷蔵庫から缶ビールを出して呑む。股間は充実していなかった。だが、女体を前にすれば勃起するだろうと思った。なぜ勃起しないかはわかっているつもりだった。 「バカだな、つまらん」  と呟いた。妹が悠介のために自殺した。それで妹の仇を討ったのだ。馬鹿なことだ。そんな人生ではつまらん。死んだものは仕方がない。どうして自分の人生を大事にしなかったのだ、と言いたい。仇を討ってどうなるものでもない。麻衣子は妹の仇を討ってすっきりしたのか。  浴衣姿で麻衣子が出て来た。女の浴衣姿というのは色っぽい。匂うようだ。白い咽を見せてビールを呑む。咽がひくひくと動いていた。胸の膨らみが目についた。缶を片手に麻衣子は抱きついて来た。背中から尻を撫でた。柔らかい体だった。そのままベッドに誘う。円型ベッドだった。  天井には大きな鏡がはめ込まれてあった。壁も鏡だった。抱き合ったままベッドに転げ込む。 「しっかり抱いて」  と言った。 「あたし、こんな淫らな女ではなかった」 「わかっているよ」  欲望があって一行を誘ったわけではなかった。そのことをわかっているよ、と言ったのだ。  麻衣子は股間に手をのばして来た。 「どうしたの」  と一行の顔を見た。 「疲れているようだな」 「嘘っ! あたしがいやなの」 「そんなわけないだろう。きみの口でしてくれれば元気になるよ」  彼女の矜《ほこ》りは傷ついた。それで怒って出て行ってくれればそれでもいい。麻衣子は体を曲げて股間に顔を伏せて来た。一行は天井の鏡の中の自分を見ていた。股間に彼女の頭があった。     3  一行は自分の布団の中で目をさました。ブザーが鳴っていた。ハーイ、と返事だけはした。昨夜、遅く帰って来た。麻衣子は自分の部屋に帰るのは面倒だから泊っていくわ、と言った。  ドアを開けると、そこに靖子が立っていた。 「どうした?」 「どうしたのよ、昨日は。あの電話が気になって、このアパートにも来てみたのよ」  そうだった。昨日出がけに靖子から電話があった。その電話に突き放すように応えた。 「どうってことないよ。着換えるから、ちょっと外に出ていてくれないか」 「いやよ」 「こんなとこ、きみに見られたくないんだ」  靖子はずかずかと上り込んで来た。一人暮しの男の部屋である。ちらかっていて当り前だろう。男の臭いもする。一行はおたおたした。  照れ隠しに、靖子を布団の中に抱き込もうとした。ピシャッ、と頬を叩かれた。 「昨日一日、あたしがどんな思いでいたと思うの」 「昨日、おれは仕事をしていたよ」 「そういうことじゃないの、あたしをどう思っているの」 「好きだよ」 「あっさり言うのね」 「靖子はおれの自由になる女じゃないことはわかっているさ」 「じゃじゃ馬だっていうの?」 「おとつい、おれがきみの家に行ったとき、きみはいなかった」 「ええ、あたしは高校の同窓会の幹事しているの、同窓会の打ち合わせに行ったのよ」 「男に会いに行ったのかと思った」 「嘘でしょう。一行があたしに嫉妬するの?」 「男だからね」 「そんなはずないでしょう。ほんとに、嫉妬したの?」 「苦しいものだ」 「そう、だったら許してあげる」  そのとき電話が鳴った。受話器を把った。山下署の来須刑事だった。 「どうしたんです?」 「公文麻衣子が消えた。今日は事務所にも出ていないんです」 「それは」  と言いかけて靖子をチラッと見た。 「それに、中志茂もいないんですよ、どこに行ったか知りませんよね」 「ぼくが知るわけないでしょう」 「電話があるか、二人をみつけたら電話をくれませんか」 「いいですよ、ぼくも探してみます」  よろしく、と言って電話が切れた。 「山下署からだ。きみの兄さんを殺した容疑者が姿を消した」 「逃げたの?」 「そうかもしれないな」  山下署の捜査本部では尾行をつけていたのか、それでなければ、こんなに早く失踪がわかるわけはない。もしかしたら麻衣子とホテルに入るところも見られたのかもしれない。 「布団を片付けるから外へ出ていてくれないかな」 「いいわ、あたしが掃除する。あなたはシャワーでも浴びて来たら」  言われてシャワー室に入った。この部屋にはバスはついていない、シャワー室だけなのだ。髪を撫でつけ髭《ひげ》を剃《そ》った。そしてシャワーを浴びる。  麻衣子と中志茂が行方をくらました。麻衣子はホテルには泊らなかったのかもしれない。あのあと中志茂に電話し、中志茂のアトリエに行った。そして二人でどこかに行った。どこに行ったのかはわからない。  中志茂のアリバイが崩れた。麻衣子のアリバイもやがては崩れる。  シャワー室を出た。半裸だが靖子は抱きついては来なかった。まだ朝のうちだ。部屋の中は片付いていた。一行は下着をつけワイシャツを着てズボンをはいた。  また電話が鳴った。受話器を把る。丸の内北署の藤井主任だった。 「いま、山下署から電話をもらったところです」 「きみも二人の行く先を知らんというのかね」 「知りません」 「きみが二人を引き合わせたんだろう」 「それはそうですが」 「きみの責任だぞ」 「ぼくの責任ですか」 「行き先がわかったら知らせてくれ、たのむよ」  そう言って電話を切った。行方がわからなくなって丸の内北署の捜査本部もあわて出したようだ。 「丸の内北署からだ」 「ずいぶん忙しいのね」 「二人はみつからないだろうな」 「どういうこと?」 「男と女だからね」  ふと、東郷警備会社に電話するのを思い出した。 「昨日、東郷警備会社に行って来たんだ」 「ああ、父が紹介したところね」  東郷警備のダイヤルを回した。電話はつながった。藤崎専務を、と言った。女秘書が出た。そして藤崎が代った。 「おう、鏑木くんか」 「藤崎さんにお世話になることにしました」 「そうか、それはよかった。きみが入ってくれると調査部も充実する。これから、すぐに来てくれるか」 「わかりました」  と言って受話器を置いた。そしてまた受話器を把り、昔の仲間と先輩に電話する。そして東郷警備会社のことを聞く。警備会社としては大きくはないが、評判は悪くなかった。 「これから、渋谷の東郷警備に行く」 「あたしも連れてって、藤崎のオジさまは昔からよく知っているの」 「だったらまずいんじゃないかな」 「そうね、じゃ、近くの喫茶店ででも待っているわ」  靖子と共にアパートを出た。左腕に靖子が腕を回してくる。昨夜の麻衣子を思い出す。靖子とは違うが白いきれいな体をしていた。一行にしがみついて来て悶えた。必死のようだった。悶えて狂った。涙を流していた。あるいはほんとに泣いていたのかもしれない。  悠介への復讐を考えなければ、まともな結婚生活ができただろうに、麻衣子の容姿だったら玉の輿に乗れたかもしれないのに、もっとも玉の輿が倖せとはいえないが。  人を呪わば穴二つという。悠介を恨んだ。復讐なんて考えなければよかったのだ。恨みは恨みで心の中に貯めておけばよかった。現代人には殺したいヤツが二人いるといわれる。だが、そういう人たちすべてが殺したいヤツを殺したりはしない。 「ねえ、何考えてるの」 「失踪した二人さ」 「どうして兄を殺したのかしら」 「さあね。殺した本人じゃないと、わからないんじゃないかな」  いまごろは、麻衣子も中志茂も悔んでいるはずだ。あるいはそのときには、自分のアリバイ作りに酔ったのかもしれないが。  渋谷駅で降りた。 「あたし、青山のマンションにいようかしら」 「それでもいいけど」 「必ず来てくれるわね」 「それはわからんさ。急な仕事があるかもしれない」 「それじゃいやよ。ついていく」  とまた腕を回して来た。  麻衣子と中志茂を会わせたとき、こういう結果になることは予想していたような気がする。おそらくは一行の悪意だったのだろう。結果を予想して二人を会わせた。中志茂は体つきは大きいが気の小さな男だったのだろう。 「ねえ、何考えているの、あたしのこと少しは考えてくれてもいいじゃない」 「考えているさ、仕事以外のときは」 「ほんとに?」  靖子とは別れようと思った。靖子に苦しめられるのはかなわない。つい妄想が出てしまう。妄想というのは始末に悪い。おとつい靖子が家にいなかったのは同窓会の打ち合わせだった。その言葉を百パーセント信じることはできないのだ。そういう妄想をするのは惚れたからなのか。靖子のことを調査したら、男がいたりするかもしれない。  ビルの地下は喫茶店になっていた。そこに靖子を待たせておいて三階に上った。受付の女の子が、 「おまちかねです」  と一行の顔を見て言った。調査部長の部屋をノックすると、女秘書がドアを開けた。 「やあ、鏑木くん、よく来てくれた」  応接セットを指さした。向い合って坐る。藤崎はテーブルの上に名刺の箱を出すと、それを押しやった。 「きみの名刺だ。昨日刷らせておいた」 「手回しがいいですね」 「さっき、反町くんにも電話しておいたよ。それに、きみはアパート住いだそうだが、うちの寮に入らないか、会社にも近いし、いつでも連絡がつく。もっともポケットベルは持ってもらうがね」  一行は眉をひそめた。この警備会社に就職するということは、自由でなくなるということだ。給料をもらえば生活は安定する。だがそれだけ束縛を受けるということでもある。県警を辞めてからは自由だった。金はなくてもだ。人は束縛されてかえって安心なのかもしれない。束縛されるのを望んでいる。 「あまりうれしくないようだね」 「いや、そういうわけではありませんが、いま事件をかかえていますので入社はしばらく待ってくれませんか」 「そんなことは遠慮はいらん、入社していまの事件を片付ければいい。反町くんに話してうちの仕事にしてもいい。朝九時に出社してくれればいい、あとは特別の用がない限りはきみの自由でいい」  うまいこと言いながら、やがてはどっさり仕事を押しつけてくるのだ。 「わかりました。専務のおっしゃる通りにしましょう」 「専務ではない、調査部長だ。わたしがきみの上司になる」 「それでは部長」 「いま、きみのデスクに案内させる」  女秘書が頷いた。どうぞ、と言う。女秘書のあとについていく。同じ階に調査部というのがある。その部屋に入ると、四、五人の男たちがいた。 「みなさん、こちらは今度入社された鏑木一行さんです」  と女秘書が紹介した。よろしくと、一行は頭を下げた。空いた机があった。それが一行の席である。机の上には電話が一台のっているだけだった。  一行はエレベーターで地下の喫茶店に降りた。靖子は雑誌を読んでいた。向いの椅子に坐り、名刺の箱の中から一枚を出して靖子に渡した。 「よかったわね」  と靖子が言った。     4  一行は翌日、恵比寿にある会社の寮に入った。せっかく寮があるのだから、アパートにいることはなかったのだ。六畳の一間っきりだが、食事つき、風呂は共同である。  何とかなるさ、という気がある。たしかに自由ではなくなったが給料は入って来る。暮しに怯えることはなかった。ポケットベルは持っている。紐つきである。給料は一行が出した条件をのんでくれた。  朝八時に起きる。顔を洗って仕度して寮を出る。寮の近くにバス停がある。バスに乗れば会社まで十分前後である。  九時すぎまでいて外出する。そして足を八王子に向ける。会社で用があればポケットベルが鳴るだろう。まだ事件は解決したわけではなかった。公文麻衣子と中志茂は姿を消したままである。  山下署も丸の内北署も二人を指名手配するほどではなかった。容疑者は他にもいたのだ。だが、それらの容疑者が次々と白になれば、目は二人に向けられて来る。  一行だって二人を探しようはなかった。八王子で降りて、反町家に向う。公文麻衣子のアリバイは、みんな崩れたわけではないが、一応の報告はしておかなければならないし、東郷警備に就職した報告もするべきだろう。  家に祐一郎がいることは電話で確かめておいた。玄関に入るとお手伝いが顔を出し、応接室に案内してくれた。靖子は外出しているようだ。得体の知れないところのある女だ。だから魅力があるのかもしれないが。男を不安がらせる女だ。もっとも靖子がどこへ行こうと勝手なのだが。  祐一郎が姿を見せた。一行は立ち上る。 「まあ、坐って。藤崎くんから電話があった。彼もきみが入ってくれたんでよろこんでいたよ」 「お世話になりました」 「なあに、わたしが世話したわけではない。むこうが欲しがっていたんだ。調査部をもう少し充実させたいが人材がないというんだ。きみのことを話したら、ぜひに、ということでね」 「山下公園の事件のことですが」 「解決したのかな」 「まだですが、ほぼ解決したようなものです」 「というと」 「二つの事件の容疑者二人が失踪しています」  事件のいきさつを語った。麻衣子と中志茂のことである。 「悠介を殺したのは、公文麻衣子という女かね」 「はい、ほぼ間違いありません。もっともアリバイは半分しか片付いていませんが」 「その麻衣子という女は美人なのかね。悠介が惚れていたようだから」 「美人ですね」 「動機は何なのかね」 「恨みだと思います。彼女の妹が自殺していますからね」 「妹のことで恨んで悠介を殺した。だけど、そのあとの自分の人生はどうなるんだね。捕まらなくても十五年は怯えて暮さなければならなくなる。そうなると十五年は長い」 「ぼくもそこを考えてみました。だけど、復讐を考えそれを計画しているときは、目的だけで、自分の将来なんて考えられないのではないでしょうか。恨みは恨みとして抱いて生きていくべきだった、と考えたんですがね。彼女は美人だし、まともな生活ができたと思いました」 「まともな生活が倖せだ、とは限らないけど少なくとも犯罪者にはならなくてすんだ」 「その通りだと思います、そういう神経だと人殺しなどできません。そのときには狂っていたんだと思いますよ」  麻衣子と中志茂はどこかへ逃れて、隠れて生きるつもりなのか。全国手配というわけではないのだから、そう簡単にはみつからないだろう。麻衣子は、あなたのせいよ、と言った。容疑者同士、二人体を寄せ合えば怯えはなくなるのか。 「そう、狂わなければ人は殺せんな。正常な感覚ではなくなっている」 「そうですね。それで、実は調査費が残っていますが」 「きみの日当をさし引いてもかね」 「はい」 「だが、まだ事件は終っていない。そうだな、残った金がなくなったとき、調査は終りにしよう。東郷警備のほう、よろしく頼むよ」  わかりました、と立ち、頭を下げた。反町家を出て八王子駅に歩く。そして、一応、恵比寿の寮にもどった。夕食をすまして、反町家に電話してみる、が靖子はもどっていない。  自分の部屋で、時刻表を拡げて、麻衣子のアリバイを崩してみようと考える。だが何度考えてもアリバイは解けないのだ。  熊本駅に『はやぶさ』の発車までいたら、山下公園で反町悠介とは会えない。会えない人間を殺すわけにはいかない。  何だかそのこともどうでもよくなったような気がしてくる。それよりも気になるのは靖子だ。靖子が男に抱かれているような気になってくる。  妄想は妄想を生む。靖子の乳房を男の手が揉んでいる。その手が彼女の股間に入る。彼女は声をあげ、体をくねらせる。靖子の手が怒張したペニスを握る。しごく。その尖端に唇を這わせる。舌でなめらかに、そして根元まで呑み込む。  妄想というものはきりがないものだ。居たたまれなくなって寮を出た。そして電車に乗り八王子に向った。反町家の前に来た。そしてその門の見えるところで張り込む。張り込みには馴れているが、こんな張り込みはみじめだ。  一時間、二時間と張り込む。恵比寿から八王子に来るまでに靖子はもう家に帰ったのかもしれない。だが、男と会っているのなら、こんなに早く帰るはずはないのだ。靖子は出もどりだ。門限などというものはないのだろう。  靖子が男に抱かれている。そんなの自由じゃないか、一行がとやかく言うことではない。靖子の夫であるわけでもないのだから。恋人とも言えないかもしれない。靖子にとって一行はただの遊び相手の一人かもしれない。とやかく靖子を非難するほうが間違っている。  靖子が他の男と不倫している。不倫ではないな、彼女は離婚したのだから。相手の男に妻がいれば不倫になる。だが、何の証拠もない。いまごろは、家に帰って寝ているのかもしれない。靖子の情事は、一行の妄想に過ぎないのだ。  立ち去ろうとするが、足が動かない。東京行きの終電車はもうなくなっているだろう。煙草がなくなった。だが近くに煙草屋も煙草の自動販売機もない。張り込みするときにはたいてい余分に煙草は買っておくものだ。その用意もなかった。このまま夜明けまで立っているのか。  やけに反町家の門灯だけが明るい。靖子を忘れてしまえば、こんな苦しみ方はしなくてすむ。こんな嫉妬心が自分にあろうとは、靖子に会うまでは思ってもいなかった。  自殺した中志茂の兄という男も、こんな思いをしたのだろう。麻衣子の妹もやはり同じだったのか。立見史子は中志茂の兄のことは何とも思っていなかった。反町悠介も同じだろう。相手の苦しみがわかっていない。靖子だって同じだ。一行がこれほどに苦しんでいるとは思ってもいないだろう。  午前二時だった。駅の近くに朝までやっているバアや呑み屋があるだろう。そこで一番電車が走るまで呑んでいよう。そう思って歩き出そうとしたところで、反町家の門前に車が停まった。赤塗りのしゃれた車だった。  ハッ、と思って歩み寄る。車内灯がついた。ドアが開いたのだろう。男が女を抱き寄せ、キスしていた。女は男の首に両腕を回している。男と女は離れた。車を降りる。靖子だった。  靖子は門に向って歩いていく。その腰の動きが妙だった。男に抱かれて激しかったのだろう。一行は青くなりそして赤くなった。走り出したい衝動をじっとこらえた。一行の妄想は妄想ではなかったのだ。おそらくは、お見合いも同窓会の打ち合わせも嘘だった。男とデートしていたのだ。女は平気で嘘をつく。  靖子の姿は玄関に消えた。一行は蹌踉《そうろう》と歩き出した。膨らんでいたゴム風船がパチンとはじけてしまったようだ。  駅の周辺に開いている呑み屋を探した。     5  朝一番の電車で恵比寿の寮にもどり、布団の中にもぐり込んだ。目がさめたのは昼ごろだった。靖子のショックはそれほどに残ってはいなかった。独占できる女ではなかったということだ。  顔を洗い、そして着換えた。これから会社に行こうと思ったのだ。これで何だかふんぎりがついたような気がした。ドアがノックされた。ドアを開けると、そこに管理人が立っていた。初老の頭髪のない男だった。 「鏑木さん、手紙が転送されて来ましたよ」  と言って、わりに厚い封筒をさし出した。高円寺のアパートには転居届を出しておいた。裏を返すと�公文麻衣子�とあった。送りもとの住所はなく名前だけだった。  封を切って便箋を取り出す。六、七枚はあった。びっしりと小さな女文字が並んでいた。その文字を目で追った。  鏑木さん、ごめんなさい。とうとう二人で逃げ出してしまいました。中志茂がそう言い出したのです。わたしは迷いませんでした。あなたに抱いてもらったことで、何かふんぎりがついたのです。  鏑木さん、あなたが悪いのですよ。わたしと中志茂を会わせたりするから。彼と会わなかったら、刑事が逮捕状を持ってわたしの前に現われるまで、のほほんとしていたでしょう。  結局は、わたしも中志茂も怯えていたんです。中志茂は体は大きくても臆病な男でした。彼はわたしを抱いて泣くんです。わたしだけが頼りなのです。頼られるとわたしもまんざらではありませんでした。  まさに同病相憐れむ、ですね。中志茂はしきりに言っています。�おれはなぜ立見史子を殺したんだろう�って。いまになって、なぜはないはずだけど。彼もわたしもまだ若いのに残りの人生を失ってしまったのです。もちろん、わたしは悔いてはいません。悔いても仕方のないことですもの。  わたしも少しは悔んでいます。けれど悠介を殺すときには麻里子(妹の名前です)の恨みしかなかったように思います。麻里子は悠介に恋い焦がれて死んだのです。わたしと麻里子は仲のいい姉妹でした。それだけに、麻里子が可哀相で可哀相で、悠介に対して殺意が膨らみました。  わたしは復讐の目的をもって悠介に近づきました。だから他の女たちとは違っていたのだと思います。悠介は次第にわたしにのめり込んで来ました。愛している、結婚してくれ、とも言いました。わたしはそれをはぐらかしたんです。少し待ってくれと。彼は会う度に言いました。いつ結論を出してくれるんだと。  四月二十四日、山下公園で結論を出すわ、と言いました。時間は五時半でした。彼が求める結論は結婚の承諾でした。わたしの結論は悠介を殺すことでした。男と女の思いはこうも違うものなのですね。麻里子のことがなければ悠介と結婚していたかもしれません。  鏑木さんの疑問にお答えします。  拳銃はわたしが税務を見ているある会社の社長さんにもらいました。女のわたしにも使える拳銃でした。悠介の背中に押しつけて二発射ちました。でもほとんど音はしませんでした。  あとで聞いたところによりますと、悠介の死亡時刻は六時二十分とのことでした。わたしが射ったのは六時のかなり前だったと思います。どうしてそれほど悠介が生きていたのかわかりません。そして、どうして悠介が助けを求めなかったのかも。  あなたは、わたしのアリバイが半分解けたとおっしゃいました。前半か後半か、どちらも同じことですが。そしていまはすべておわかりのことと思います。でも、念のために、わたしの二十四日の行動について書いておきたいと思います。  わたしは、二十四日の九時前に姉の家を出ました。そして熊本駅から西鹿児島行きの、『ハイパー有明7号』という特急に乗りました。熊本発が九時二八分、西鹿児島着が一二時一二分。西鹿児島発の寝台特急『はやぶさ』は一三時一〇分です。一時間ほど時間があります。一二時五〇分には改札になりました。  わたしが乗った列車は六号車でした。座席に坐ってしばらくすると、車掌が車内改札に来ました。キップと寝台券にハサミを入れてもらい、座席に荷物を置き、カーテンを閉めて列車を降りました。そして改札を出る。ついでに入場券も買っておきました。  駅を出て鹿児島空港に向いました。全日空628便、一五時三〇分離陸です。空港でのんびりする時間がありました。もちろん、わたしはこれから人を殺そうというのですから気分的には苛立っていました。  羽田には一七時に着きます。五時です。そしてタクシーで桜木町駅に行きました。駅のロッカーには拳銃が入れてあったのです。そこから歩いて山下公園に行きました。小走りだったと思います。公園入口に近いところに悠介は立っていました。  悠介を射ち、拳銃は海の中に投げ捨てました。そして急いでタクシーを拾い羽田空港に向いました。  広島行き最終の、全日空685便、一八時三〇分に間に合いました。山下公園から羽田空港までは、何度かタクシーに乗って、その時間を確かめました。685便に乗れる自信はありました。  広島空港に着いたのが二〇時ちょうどでした。広島駅までは車で三十分、八時半には広島駅に着きます。『はやぶさ』が広島に着くのは二二時三九分。二時間以上あります。わたしは珈琲でものんで時間を潰すつもりでした。わたしの計画はそこまでだったのです。でも二時間あれば、もっと『はやぶさ』に近づけるんじゃないかと、時刻表を調べました。すると岩国まで下りの各駅停車で行けることがわかりました。そして岩国で『はやぶさ』に乗り込みました。  そのままロビーカーに行き、そこでソファに坐っていました。誰か証人が必要でした。むこうのソファに坐っている男、高瀬康夫がいました。目と目が合い、高瀬はわたしの席に移って来たんです。  こうして文字にしてみるとアリバイ工作なんて簡単なものですね。一ヵ月ほど時間をかけて考えたつもりなのですが。  いまは悠介を殺したことをとやかく言うつもりはありません。だけど悠介殺しを計画して殺すまでの間、わたしはいきいきとしていました。悠介は麻里子のために殺さなければいけないのだと、恨みを膨らませていました。その恨みが途中でしぼんでしまえばよかったのでしょうが。  あなたは、どうしてわたしに中志茂を会わせたのですか。あなたは、わたしと中志茂がこうなることを見越してたんですね。  中志茂のアトリエにも行きました。わたしのような素人が言うのはおかしなことですが、彼はテクニックは持っていましたが絵心は持っていませんでした。油絵を何点か見ましたが心に訴えて来るものがないんです。彼は職業を間違ったようです。つき合っていても底の浅い男であることがわかります。でも、いまはわたしのただ一人の男なのです。彼の支えになってやらなければと思っています。  もう一度申します。鏑木さん、ありがとうございました。あなたに抱いてもらわなかったら、わたしのふんぎりはつきませんでした。  さようなら。                        麻衣子  一行は寮を出た。バスに乗るところを歩いた。バスに乗る気分ではなかったのだ。人影のないところで手紙にライターで火をつけた。誰にも見せるつもりはなかった。燃え上る炎をじっと見ていた。  二人を会わせようと思ったとき、このような結果を予想していたように思う。逃げきるために綿密なアリバイ工作をした。だが、いざ復讐が終ったあと、自分のやったことのむなしさを覚える。二人を会わせたとき、麻衣子も中志茂もむなしさを覚えていたときだったのに違いない。  恨みというのは晴らしてはいけないのだ、と一行は思っている。恨みは胸の中で大事に育てていけばバネになる。そのバネを利用すれば、何かができるものだ。  中志茂だって、恨みを晴らさなければ、いい画家になっていたのかもしれない。二人とも恨みを晴らしたあとのむなしさを考えるべきだった、といま言っても無駄なことだが。  麻衣子は『はやぶさ』の始発、西鹿児島まで行ったのだ。そのことは一行にも考えられなかった。わかってしまえば、なんだ、とがっかりするところだが。頭が悪いのだ。東京へ向う者が西鹿児島に逆行するなんて思いつきもしなかった。  熊本駅で『はやぶさ』が到着するころ、駅構内に麻衣子の姿がなかったわけである。刑事の頭は堅いものである。常識的なことしか考えられない。一行も二年前までは刑事だった。刑事の頭から抜けきれていないのだろう。  一行も、殺人事件のときは捜査本部の捜査員になったことは何度もある。捜査会議というのは刑事たちが意見を出す場である。だが、その意見を取捨選択するのは捜査主任である。主任の考えに反すれば捨てられてしまうのだ。  山下署の来須刑事は、『はやぶさ』殺人事件と山下公園殺人事件の二つを交換殺人と考えた。だが、宗方主任はこの意見を採らなかった。常識を外れていたからだ。もちろん、交換殺人ではなかったのだから。でも来須刑事の発想がなければ、一行も二人を会わせることは考えなかっただろう。とすれば、二人は会うことはなかったのに違いない。運命の出会いだったわけだ。  歩いて会社に着いた。調査部室に入り自分の机の前に坐った。 「鏑木さん、電話です。山下署からです」  と声がかかった。受話器を把りボタンを押した。山下署にはこの会社に入ったことを知らせておいた。 「鏑木ですが」 「山下署の来須です。いま釧路署から連絡がありまして、公文麻衣子と中志茂吉昭は、阿寒湖の湖畔で心中していたそうです。二人は睡眠薬を飲んでいたそうです」  一行は黙った。 「やはり、二人は交換殺人をやったんですかね」 「そうかもしれませんね」 「そういうことですので、鏑木さんにもお知らせしといたほうがいいと思いまして」 「有難うございました」  受話器をもどした。  やはり二人は死んだ。ショックはなかった。こうなるだろうとは思っていた。十五年間、逃げきる気力はなかったのだ。  阿寒湖は、二人のどちらかの思い出の地だったのだろう。これでみんな終ったことになる。椅子を立って部屋を出ようとしたところを呼び止められた。 「鏑木さん、電話ですよ。今度は女性からです」  一行はもどって受話器を把った。 「鏑木ですが」 「あたし、靖子よ。昨日電話くれたそうだけど、何か用でもあったの」 「用なんてないよ。ただ、会いたかっただけさ」 「ほんとに。うれしいわ」  靖子は屈託がない。 「ねえ、あたし、今日夕方から青山のマンションに行こうかしら」 「でも、お疲れじゃないのかな」 「どうして?」 「外出のようだったから」 「デパートに買物に行ったのよ、疲れてなんかいないわ」 「これから、そちらに行こうと思ったんだ。事件の報告もあるしね、事件は終った」 「あら、犯人は逮捕されたの」 「いや、自殺した」 「そう、家に来るんだったら、一緒に出られるわね」 「そうだね」  と言って電話を切った。  灰皿を引きよせてキャスターに火をつけた。もう、靖子に対しての嫉妬はなかった。昨夜、もう今朝になっていたが、男と一緒に帰って来た靖子を見たからだ。歩くときの腰の動きを見たからでもある。男に抱かれたあとの女の腰はあのようになるのか。靖子が秀夫という亭主と離婚したのは、靖子の浮気だったのだろう。靖子のような女を妻にすれば、男は落ちついてはいられないものだ。  これからは、嫉妬なしで靖子とつき合えそうな気がする。素晴しい体の持ち主だから、別れるには未練がありすぎた。    (了) 〈時刻表は一九九〇年四月号を使用しました〉 本作品は、一九九〇年七月、小社よりノベルス版として初版刊行された。 本電子文庫版は、一九九三年六月刊行の講談社文庫第一刷を底本とした。